主よ 憐れみ給え

 空はやわらかな青色で、ふわふわの綿雲が眠そうに浮いている。アカシアの黄色く可憐な花は今がさかりで、枝が重たそうにゆらゆらと揺れるたび、かすかな甘い香りがする。
 春のうららの昼さがり。
「きやあああああっ!」
 絶叫に、羽を休めていた小鳥が一斉に飛び立った。

「おはよう、キリエ」
 叫んだキリエに落ちてきたのは、穏やかで楽しげな声だった。
 深く透きとおる琥珀色の瞳。ほりの深い、けれどどこか繊細な顔立ち。ほとんど白に見えるごく淡い金色の髪が、さらさらとキリエにもかかりそうなくらい近くにある。
「ルーク!」
 案の定の顔に、キリエは叫んだ。
「おおおおお、おはようじゃありません! 何するんですか何してるんですか!!」
 そこは豊かな小国フェリアンの手入れの行き届いた庭園で、キリエはあおあおと茂ったやわらかい芝生に押し倒されていた。いたずらっぽい笑顔のルークは、キリエの華奢な身体を下敷きにしている。
「キリエを襲っています」
 ちゅっとキリエの白いこめかみに口づけを落としながら、ルークは飄々と告げた。キリエのすべすべとした肌に鳥肌がたつ。
「平然と言わないでください! って、ドコ触ってるんですか!」
「あったかくて、やわらかくって、キリエは気持ちいいです」
 悲鳴をあげるキリエにおかまいなく、幸せそうにその身体をまさぐるルークに、キリエはとうとうぶち切れた。その細い腕に渾身の力を込めて振り下ろす。
 どごっ。
 鈍い音が庭園に響いた。

「変態発言はやめてください!」
 ようやくルークの下から這い出ると、キリエは肩で息をしながら真っ赤になって叫んだ。乱れた胸元のリボンを結ぶ手も、怒りで小さく震えている。ルークはその様子に小さく息をつくと、その場に座り込んでキリエに殴られたあたまをわざとらしく自分で撫でてみせた。
「痛いです」
「痛くしたんだから当然です!」
「キリエが悪いんですよ。こんなところで、可愛い顔して可愛い寝息をたてて可愛らしく午睡(ひるね)なんてしているから」
 まるで自分は悪くない、といった口調でルークは拗ねたように言った。キリエは一瞬本気であきれる。どうしてこの男は臆面もなくこういうことを言えるのだろう。キリエはため息まじりに言った。
「そういうときは襲わないで起こしてください!」
「無理です」
 予想通りの答えに、キリエはぐったりとうなだれた。

 ざあざあと風が吹いた。先ほどまでぼんやりと空に浮いていた綿雲が、名残惜しそうにのんびりと歩きだす。
 ルークはがっくりとしているキリエのかたわらで、ぱらぱらと音を立ててページを送る分厚い本に目を止めた。手に取るとずしりと重く、茶色い革の表紙には金色の飾り文字で『召喚魔術入門』と記されている。
 ……『入門』とはいっても、古代語を学びはじめてまだ数カ月のキリエが読むにはずいぶんと難しい本だ。
 ルークはキリエの絹糸のような黒髪をひと房とる。

「キリエ。そろそろ諦めて私の妻になりましょう?」
 横顔のキリエの小さな耳に触れるほど唇を近付けて、ルークはささやいた。その微かな息づかいに、キリエの肩がびくりと震える。……寒気がしたらしい。腕をごしごしとさすると、心底嫌そうなカオをして、キリエはルークの手から分厚い本を取り返した。
「絶対にイヤです。わたしは日本に帰るんです!」
 力強く言って、キリエはぱらぱらとページを探しはじめた。

 キリエはこの国の人間ではない。それどころか、この世界の人間でもなかった。
 日本。そこが彼女の生まれ育った場所で、彼女はそこに帰る方法を探している。

「無理ですよ。話したではありませんか、召喚魔術は不可逆だって」
 どんな女性も腰砕けにさせると評判の猫なで声にも動じないキリエに、ルークは苦笑して言った。その言葉に、キリエはキッとルークをにらみつける。
「人の希望を勝手にふみ潰さないでください。わたしは諦めません! 絶対日本に帰って、おしょうゆこんがりの焼きおにぎりを食べるんです!」
「ヤキオニギリ……」
 ぐっと力こぶしをふりあげて雄たけびをあげたキリエに、ルークは負けた。

 綿雲が日の光をさえぎる。

「勉強するので消えてください」
 目当てのページを見つけたキリエは、ひざの上で本を広げて読みはじめた。その細い指が古代語の文章をたどる。やはりキリエにはまだ難しいのか、ゆっくりと、時には行ったり来たりしているその指を眺めながら、ルークはつぶやくように言った。
「嫌です」
 その声に、キリエがちらりとルークを見上げた。ルークはふてくされたようなカオをしている。つくりものではないそのカオに、キリエは少し表情を緩めた。
「ルーク、まだ仕事、終わっていないのでしょう?」
 本に目を落としたままのキリエの声は、それでも先ほどまでとは違う優しいもので、ルークは急に泣きたくなる。
「……」
「ルーク」
 ルークが後ろから抱きしめて黒い髪に顔をうずめても、キリエはたしなめるようにその愛称を口にするだけだった。
 キリエが好んで使っている甘く爽やかな香油のかおりに集中して、ルークはざわついた自分の感情を手なずける。

「……部屋で勉強してください。見つけたのが私でなかったら、どうするつもりだったんです?」
 やがて、ルークはキリエを拘束する腕をゆるめて言った。キリエが振り向くと、ルークはやっぱりふてくされたようなカオで、けれどその瞳にはいつものいたずらっぽい光がある。
 それを見て、キリエはその日、初めて少しだけわらった。
「ルークじゃなければ襲われなかったと思いますが。……分かりました、わたしも部屋に戻ります」

 キリエは立ち上がった。綿雲は足早に空を走り、太陽が顔を出す。装飾の少ない、地味なドレスについた芝生をはらっていると、その小さな影が近づいてきた大きな影に呑みこまれた。キリエは振り向く。影の主にどうしたのか、と聞こうとして――固まった。

「っ、ルーク!」
 キリエがその名を叫んだのは、たっぷり十秒以上が経ってからだった。ルークはすでにキリエから離れ、のんびりと歩いている。
「勝手にキスしないでくださいって、何度言えば分かるんですか!?」
 ルークが振り向くと、キリエは耳まで真っ赤になって叫んだ。
 何度キスすれば、キリエは慣れてくれるんだろう。ルークは苦笑いしてキリエに軽く手を振ると、執務室へときびすを返した。

(C) まの 2009