永遠はミモザの香り・婚礼1

 はじまりは、あのミモザの花だったのでしょう。

 どこで手に入れたのか、王都へ出かけていたお父さまが、黄色い小さな花を無数につけた枝をいくつか、持ち帰ったのでした。
 その日のことは、よく覚えています。王都から帰ると決まって不機嫌そうにしているお父さまが珍しく上機嫌で、「どうだ美しいだろう」と歌うように言って香りを楽しんでいたのです。
 わたくしはその花を乾燥させて、居間に飾りました。

 あのときはまだ想像もしていませんでした。まさかわたくしが、今、こんなところにいるなんて。

 ぐるりと部屋を見渡してみても、それほど広い部屋ではありません。簡素で飾り気のないその小部屋には、わたくしが腰かけている古びた木製の椅子と、目の前にあるそっけない机がひとつだけ。机の上には百合のブーケがわたくしと同じようにぽつんと所在なさそうに置かれています。顔を上げると、高めの位置には小さな窓がひとつありました。小窓に切り取られた空は、どこまでも澄んだ青色をしています。
 つい先刻、わたくしをこの部屋に案内してくれた年配の女性は、「今日は雲ひとつない快晴で、本当によろしゅうございましたねぇ」と目を細くして微笑んでくださいました。きっと今も、窓の外は晴れ渡っているのでしょう。
 遠くで、高い鳥の啼き声がひとつ、聞こえたようでした。
 ここはなんて静かなのでしょう。建物の表には、もうたくさんの人々が集まっている頃でしょうに、わたくしがほんの少しみじろぎしただけでもさやさやと衣ずれの音が耳元で聞こえるようです。もっとも、こんなレース飾りがふんだんに使われたドレスを着ていては、どんなに騒がしい場所でも衣ずれの音が耳に響くに違いありません。
 王都の大聖堂。
 わたくしは、誓いを立てる花嫁でした。支度はもうすっかり済んで、小さな控室でひとり、お父さまが呼びに来るのを待っているのです。それなのに、お父さまはなかなかやって来ません。
 相手が相手ですから、きっと色々とあるのでしょう。わたくしは芸術的な模様を描く純白のドレスの裾をぼんやりと眺めてその人のことを思い描いてみました。

 ルファルド・コルヒドレ。それがわたくしの夫となる方の名だといいます。
 年は十八になったばかりのわたくしよりも三つ上の、二十一歳。このテラリス建国以来、多くの優秀な宰相を輩出してきた名門・コルヒドレ家の現当主で、現在は伯爵さまですが、順当にゆけば間違いなく侯爵さまにはなるといいます。王位継承権までお持ちの、国でも十本の指に入る有力貴族です。
 そんな方のご結婚ともなれば、お国の要人がぞろぞろと集まるのでしょう。そのあたりの準備はお父さまが取り仕切っていたので詳しくは知りませんが、何でも女王陛下までお見えになるのだそうです。
 わたくしは思わずため息をついてしまいました。

「わたくしが、そんな方に嫁いでやってゆけるとお思いですか」
 わたくしは初め、話を持ってきたお父さまに、たっぷりの嫌味も込めてにっこりと微笑みそう言いました。世間ではやり手と言われているらしいお父さまも、わたくしには弱いのです。びくっとされたのを、わたくしは見逃しませんでした。
「無理に決まっています! 今すぐに取り消して来て下さい!」
 びしっと扉を指さして、さあお行きになってと言わんばかりにまくしたてると、お父さまは心もち身体を小さくして、立ち上がったわたくしをおどおどと見上げました。
「そうは言ってもなぁ、メイサ。女王陛下もたいそうお喜びで……」
「女王陛下!? お話なさったのですか!」
「ああ。ルファルド様とご報告をな。陛下は恐れ多くも参列するとおおせられ、式の日取りも御自らお決めくださった。四月後だ」
 もう娘の怒りなど忘れてしまったのか、お父さまはわたくしと同じ深いオリーブ色の瞳を細くして、嬉しそうに言うのです。かあーっと頭に血が上りましたけれど、そのせいで貧血のようになってしまい、わたくしは先までかけていた長椅子にもたれかかりました。もう何も言葉にはなりませんでした。

 お父さまこと、ヘカーサイフ・ベラトリックは、数年前に先の国王陛下より男爵位を拝領した、――言ってみれば、成り上がりの新興貴族なのです。コルヒドレ家とは同じ貴族というのもはばかられる、雲泥の差があります。
 色々とあって、わたくしはお母さまと共に暮らしたことがありません。ものごころついた頃からお父さまとふたりでしたし、むかしは貧乏でしたから、炊事、洗濯、裁縫、何でも自分でやります。貴族令嬢(このわたくしが!)としては失格ですが、わたくしにはそれが普通なのです。ある程度は覚悟していたことですが、それでもそんな生粋の大貴族に嫁ぐなんて考えられませんでした。
 話を聞いたわたくしが長椅子にもたれてぐったりしていると、お父さまが言いました。
「なに、心配はいらない。私はこのところ王都へゆくたびにルファルド様のお屋敷にうかがっているのだがね。あの方はいつも着古した作業着に大きなつばの帽子をかぶられて、ご自分で庭の手入れをなさっているのだ。あれ、前に持ち帰ったミモザは、ルファルド様がご自身でお育てになったものだ。何でも、一部は花屋に卸しているとか」
 それは一体、どういう伯爵さまなのでしょう。
 貴族ならば、庭師を雇うのが普通なのです。コルヒドレ家の家格を考えれば専属の庭師がいて当然だと思うのですが、百歩ゆずって庭師がいなくても、そういったことは使用人がするのが普通なはずです。自分で庭いじりをするわたくしは自分を異端だと判断していたのですが、いつの間に常識が変わったのでしょうか。その上、花屋に卸しているなんて、わけが分かりません。
 わたくしが戸惑っていると、お父さまはくくくと笑って、くだけた調子で言いました。
「まあ、ぶっちゃけ、貧乏なのだ。先代、先々代あたりが、かなり無茶をなさったようでね。ルファルド様が継いだときには、我が家の全財産を十件分つぎ込んでも足りないほどの借金があったそうだ」
 くらり、と。先とは違う意味でめまいがした気がしました。我が家は成り上がりなので貴族の中では最下層の地位ですが、成り上がっただけあって、お金だけは下手な貴族の方よりもよっぽどあるのです。しみついた貧乏性が抜けないので、それほど華やかな生活を送っているわけではありませんから、貯まる一方らしいのです。
 それを十件分つぎ込んでもまだ足りないほどの借金!
 ……下手をしたら、国家予算を超えるのではないでしょうか。どうすればそんなものができるのでしょう。あまりにも現実離れしすぎていて、想像できません。
「今は領土もほとんど手離されて、借金もどうにか返すめどが立っているそうだがね。それでも厳しいことに変わりはない。使用人もほとんどいなくて、ルファルド様は庭の手入れからお茶もご自分で淹れられる素敵な紳士だ。おまえにぴったりだろう」
 お父さまはそう言うと、朗らかに笑いました。

 そうは言っても、コルヒドレ家は歴史と伝統のある家です。式だって当然のようにものものしくなります。
 わたくしは身にまとった豪勢すぎるドレスの裾をほんの少し、持ち上げてみました。ふわりとした布地は軽そうに見えますが、これだけあるとずしりと重く、肩がこってしまいそうです。手を離すと、さらさらと心地よい衣ずれの音を残して、きれいに掃き清められた床にレースの花模様が流れました。わたくしはまたそれをぼんやりと眺めていました。
 不安でした。
 いくら今のコルヒドレ家が困窮しているとはいえ、結婚式でこんな一生着ることもないと思っていたようなドレスを着なくてはならない相手なのです。不安にならない方がどうかしています。同じような不安で心細くてたまらなかった時のことを思い出して、わたくしはまぶたを伏せました。

 二年前のことです。
 その日は女王陛下が即位された日で、国中、いいえ近隣の国からもたくさんの人がそのお祝いに、王城へと集まっていました。戴冠式はある程度以上の方たちのみで、今わたくしがいる大聖堂で行われたのですが、お祝いの夜会は王城の大広間で盛大に催されたのです。
 十六だったわたくしも、お父さまに連れられてその夜会に参加しました。本当ならばお母さまが出るところなのでしょうが、随分と前にお母さまは天に召されてしまいましたから、わたくしが代理として出席したのです。
 今、着ているドレスとは比べ物にもなりませんが、その時のわたくしには一張羅ともいうべき鮮やかな黄色のドレスに身を包み、緊張しながら足を踏み入れた王城の大広間は、まるでおとぎ話の世界のようでした。
 ろうそくの光を反射して、まばゆいほどに輝くシャンデリア。思いおもいに着飾った人々。天上のもののように美しい音楽がつつましく流れ、大理石の床は顔がうつり込みそうなくらいぴかぴかに磨きあげられていました。
 お父さまと一緒にごあいさつをした女王陛下は、中でもことにお美しい方でした。わたくしのあかぬけない濃い金髪とは違って、輝くような金色の御髪がきらきらとして、海のように深く青い瞳はどんな宝石よりも澄んできれいでした。白と金色の荘厳なドレスがよくお似合いで、この世にこんな美しい方がいるなんて、とわたくしはうっとりしておりました。
 ダンスも踊りました。わたくしのような田舎娘が物珍しかったのか、何人かの方に申し込まれたのです。初めての夜会でしたので、誰が誰なのかさっぱり分かりませんでしたが、まずわたくしよりも身分の高い方ばかりなのは間違いありません。誘われるままに端から踊ったのでした。
 わたくしには、楽しむ余裕などありませんでした。物語に出てくるようなきらびやかな貴公子は靴までぴかぴかで、踏んで汚してしまわないか、そればかりが気になって仕方なかったのです。おかげで、ただでさえダンスは覚えたてでどうにか踊れる程度でしたのに、自分でも盛大にぎくしゃくしているのがよく分かりました。はたから見れば、さぞや滑稽だったことでしょう。
 いたたまれなくなって庭に逃げ出したところ、何人かの女性にお叱りを受けてしまいました。どうやらわたくしが踊った方々は本当に高位の方ばかりだったようで、身の程をわきまえろ、とおっしゃりたかったようです。
 貴族の中では、感情を直接的に表現するのは下品だといわれるそうです。そのため、頭の回転が遅いわたくしは、初め何を叱られているのかさっぱり分からなくて途方にくれておりました。ようやく理解したのは、わたくしが囲まれていることに気づいて助け船を出してくださった親切な方に「大丈夫ですか」と聞かれてからです。

 本当に、わたくしはああいった世界には向いていないのです。
 きらびやかな世界にあこがれる気持ちが全くないわけではありませんが、物語を読んでぼんやりと想像しているのがいちばん楽しいと思ってしまいます。
 自分でよく分かっているのです。それなのに、こんなドレスを着て、あと数時間の後にはこのわたくしが伯爵夫人になるなんて。

 今まで断片的に感じてきた様々な不安が、いっぺんにやってきたようでした。
 胸がざわざわとして、どうにも落ち着きません。そわそわと浮足立つ気持ちをなだめようと、わたくしは机の上のブーケを手にとりました。
 真っ白な百合と濃い緑色の蔦が美しいブーケです。その、手に持つ部分。先ほど自分でこっそりと付けた、小さな黄色に触れて、気をまぎらわそうと思ったのです。
 乾燥させた、ミモザの花。
 あの日、それとは知らずに受け取った贈り物。

 ルファルド様は、一度もお父さまの領地へはやって来ませんでした。
 仕方のないことです。ルファルド様は借金返済のために本業の宮仕えの他、花の卸売をはじめ、いくつかの副業をかかえているのだそうです。元からとてもお忙しい方なのに、結婚が決まってからはさらにその準備もあって、時間を作るどころか眠る時間すら削っていらしたといいます。
 それまでのんきに暮らしていて、婚礼準備とはいっても全体からすればごくわずかしか任されていなかったわたくしですら、直前は目がまわりそうだったのです。定期的に王都へ行くお父さまに、毎回「仕方がないのだ」と言われるまでもなく、分かっています。
 それでも、一度もお会いしたことのない方に嫁ぐというのは、それだけでも不安でたまらなくなると思うのです。
 わたくしは、コルヒドレ家が格式の高い家だということ以外には、特にこの結婚に不満はありませんでした。お父さまも貴族のはしくれ、成り上がった方ですから色々とあるようです。お父さまが爵位を得たときに、好き勝手な振舞いはできないこともよくよく理解していましたし、別に恋しい方がいるわけでもありません。
 それに、わたくしが言うのも難ですけど、本当に親バカなお父さまが選んだお相手です。お金やら地位やら名誉やら、そういった利権も当然、絡んでいますが、ルファルド様が信頼できる方なのは確かでしょう。わたくしはお父さまの人を見る目は信頼しています。
 だから大丈夫、と。
 何度も、何度も、何度も、そう自分に言い聞かせました。それでもどうしても不安なときはいつも、ルファルド様から初めていただいたこのミモザに触れて心をなだめるのです。
 そして、もうひとつ。

 わたくしの結婚が決まってから、お父さまはたびたび王都へと出向いてルファルド様と打ち合わせをしていました。そのたび、帰って来るお父さまは花束を持っていました。
「ルファルド様からだ」
 そう言って手渡された花はどれも美しく、自分でも庭いじりをするわたくしには、それがどれだけ丹精を込めて育てられたものか、よく分かりました。ルファルド様は副業だから、というわけでなく本当に庭を大切にしておいでなのでしょう。
 花にはいつも、小さなカードが添えられていました。そのほとんどが「メイサ・ベラトリック様」と、くせのある字で、ただ宛名だけが書かれているカードです。
 ただ、ちょうど十枚あるそのカードのうち、たった一枚。最後にいただいたものだけは二つ折りになっていて、中にメッセージが添えられていました。

 ――何よりも、とうとう会いに行けなかった非礼を詫びたい。貴女が来てくれることを心待ちにしている。

 わたくしが初めて「聴いた」、ルファルド様の言葉でした。
 一見、そっけなく思えるほど飾り気のない言葉。
 けれど、黄色いミモザの花に触れながら、もうそらんじてしまったその言葉を、その文字を思い浮かべると、わたくしのざわめいていた気持ちはすっと静かになるのです。
 右肩あがりでくせの強い、それでいてペンをゆっくりと念入りに滑らせたのが分かる文字。ルファルド様が書くわたくしの名は、いつだって丁寧でした。最後のカードも同じようにとても丁寧に書かれていて、「ああ、きちんと考えて書いてくださったのだな」と心から思うことができたのです。
 そう思えばこそ、「心待ちにしている」という言葉が本当に嬉しかった。
 本来ならばまるで釣り合わない身分のわたくしを歓迎しようとしてくださる、それは婚姻を決めたのですから、当然と言えば当然なのかもしれません。けれど、上流階級の方のほとんどがそうでないことはよくよく身にしみていました。上辺は身分など気にしていないようでも、根の部分ではとても気にされている方も多いのです。
 少なくともルファルド様はそういう方ではない、と、そのカードはわたくしに信じさせてくれたのです。もしもこれが走り書きだったのなら、わたくしはこれほど安らぐことはできなかったでしょう。

 ルファルド様はわたくしに丹精込めて育てた花を送ってくださいました。丁寧に書いたカードを添えてくださいました。心待ちにしていると言ってくださいました。
 そのどれもが、真摯でした。
 どこがどうとは、うまく言えません。けれどそう感じさせる何かが確かにありました。
 お会いしたことはなくとも、わたくしはルファルド様を少しは知っているのです。
 きっと大丈夫。

 大丈夫。

(C) まの 2009