それからしばらくすると、夕刻を告げる鐘が鳴りました。そろそろ退出しなくてはならない時間です。
わたくしたちはそろってエラキス様のお部屋を出ました。薄桃色のドレスは「そのまま着て帰りなさい」というサディラ様の有無を言わせぬ言葉にしたがって着たままです。
「こちらだ」
お部屋を出て、来た道を戻ろうとすると、エラキス様がわたくしの手を逆方向に引きました。
「え?」
おどろくわたくしとは裏はらに、ギエナ様とサディラ様は当然のようにそちらへと歩いて行かれます。
不思議に思いながらも、わたくしはその後にしたがいました。何か、わたくしが知らないだけで王宮のルールがあるのかと思ったのです。
ほどなく、前を歩いていたお三方が大きな扉の前で止まりました。
抜け道か何かがあるのかしらと思いましたが、エラキス様がその扉をノックします。
「エラキス・ラドファイルです。ギエナ・ラドファイル、サディラ・ラドファイル、メイサ・コルヒドレをお連れしました」
扉に続くのが道ならば、ノックも言葉も必要はないでしょう。
わたくしが首をかしげていると、内側から「入れ」という聞き覚えのあるお声が聞こえました。そのお声にわたくしが再び固まっていると、両脇をギエナ様とサディラ様にかためられてしまいます。
開いた扉の先には、広いきらびやかなお部屋がありました。金と白を基調とした、華やかな、それでいて不思議と落ち着きのあるお部屋です。長椅子やテーブル、キャビネットなどの見るからに高級そうな家具がいくつも並び、お部屋のずっと奥にはもう一枚扉があります。
そのままおふたりに半ばひきずられるように部屋に入ると、書き物机の前には案の定、女王陛下がいらっしゃいました。
「おお、きたかぇ」
陛下はこちらへその麗しいお顔を向けると、すっと目を細くして笑み立ちあがります。
どうやらここは、陛下の私室のようです。公式な場に比べると質素な、それでも十分に上等な白いドレスを身にまとい、陛下はいくらかくつろいだ雰囲気でいらっしゃいます。
……そういえば、このお遊びが王宮のエラキス様の私室で行われたのは、陛下のお言葉によってでした。ほんの冗談かと思っていたのですが、そうではなかったようです。
わたくしが固まっていると、陛下は長椅子に腰かけ、「おすわり」と向かいの椅子をすすめてくださいました。相変わらず両脇をおさえられているわたくしは、ギエナ様たちにされるがまま、ふわふわの椅子に座ります。
「どうです、陛下。可愛くなりましたでしょう?」
ギエナ様がにっこりと上品に微笑みつつそう言うと、陛下は「うむ」と相槌を打たれました。その青い瞳がじっとわたくしをご覧になります。
その視線に、サディラ様がわたくしの背を押しました。うながされるまま立ち上がると、陛下は上から下までじっくりとわたくしを観察なさいます。
絶世の美女と言って良い陛下に凝視されて、わたくしはすっかり縮みあがりました。
もう頭の中は真っ白です。レースのドレスの裾を切られたときとはまた別の意味で心臓が止まりそうです。
「可憐だのぅ」
どのくらいそうしていたのでしょう。やがて、陛下はそうおっしゃって破顔なさいました。
「わらわにもギエナたちにもできない姿じゃ」
「そうでございましょう? だからやめられませんの」
ギエナ様はころころと笑いながらそうおっしゃいます。
本当に、もうやめてください!
ギエナ様が陛下にお答えする言葉に、心の中で叫びました。けれど、心の声はもちろん聞こえませんから、陛下とお三方は至極たのしげにお話していらっしゃいます。
わたくしはとてもその話の輪に入る気力がなくて、気を抜くとひきつりそうになる顔をどうにか笑顔に保ちつつぼんやりしていました。
その時です。
こつこつと、事務的に扉を叩く音が部屋に響きました。四人はすっと口を閉ざします。
元から黙っていたわたくしは、しかし、次に聞こえてきたお声に、本当に叫び出しそうになりました。
「ルファルド・コルヒドレ、お呼びにより参りました」
低い、聞きなれたお声が淡々とそう言います。陛下が「入れ」とおっしゃると、大きな扉がゆっくりと開きます。紺色の文官の制服に身を包み、くせのある髪をしっかりとなでつけた――今朝、見送ったルファルド様がそこにいます。
「私室にお呼び立てなさるとは、何のご用でしょう、か……?」
うつむきがちに、そう言いながらこちらへと歩いていらっしゃったルファルド様は、顔を上げて陛下以外の人々を見つけると、わたくしたちがいるテーブルから少し離れたところで立ち止りました。わたくしを見て、わずかに驚いたようなお顔をなさいます。
いたずらを見つけられた子どものような心もちになって、わたくしは思わず身をすくめました。
「おお、ルド。来たかぇ」
陛下はいかにも親しげに、ルファルド様にそうお声をかけます。
「……」
ルファルド様は陛下のお言葉に無言でお顔をそちらへと向けると、ふと表情を消してすぐ近くまで歩いていらっしゃいました。
「コルヒドレ様、お久しゅう」
ギエナ様は座ったまま、ごく近くまでやってきたルファルド様ににっこりとごあいさつをなさいます。
エラキス様は、護衛としての習慣なのでしょう。すっと立ち上がると、無言で陛下のななめ後ろに立ちました。
「本日はメイサをお貸しいただき、ありがとうございます」
サディラ様はよそゆきの、少しばかりつんと澄ましたお顔で微笑みそう言います。
ルファルド様はそのお顔を順に見つめると「妻がお世話になっております」と、静かなお声で言いました。
……妻、という響きが少し気はずかしいです。
わたくしがひとり胸をどきどきさせていると、ルファルド様はわたくしにお顔を向けました。そのお顔には表情がないので、何をお考えなのかはまるで分かりません。
わたくしははずかしくてうつむきました。今日、王宮に来ることは申し上げてありましたが、こんな形でお会いするとは思いもしなかったのです。
お屋敷に戻ったら手早く着替えてしまうつもりでいたのに、見られてしまってはずかしいです。
「そなたの嫁御は愛らしいのぅ?」
どうして良いのか分からず困りきっていると、陛下がルファルド様にそうお声をかけました。社交辞令だと分かってはいても、陛下に愛らしいなどと言われると、はずかしさに拍車がかかります。
思わずそちらをちらと見ると、陛下は、失礼ですが「にやにや」という表現がぴったりなお顔でルファルド様の反応をうかがうようにしていらっしゃいました。
ラドファイル家のお三方も同じように、いたずらっ子のように楽しそうなお顔をなさっています。
それを見て、わたくしはようやく少し冷静さを取り戻し、気づきました。どうやら、ここにルファルド様が呼ばれるのを知らなかったのは、わたくしだけだったようです。
「……」
おそらく、わたくしがここにいることを知らなかったであろうルファルド様は、無言でした。陛下の方をご覧になっているそのお顔にも、まるで表情がありません。こう無表情でいらっしゃると、お顔の美しさと怖さが引き立って、いかにも「死神伯爵」といった雰囲気です。
そのお顔の下で、いったい何を考えていらっしゃったのでしょう。やがて、ルファルド様は小さくため息をつくと、まるきり変わらない冷たいお顔のまま、淡々と言いました。
「私の妻は確かに愛らしいですがそれが何か」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
あまりにも淡々としたお声だったので、一瞬、聞き流してしまいました。
が、何かすごいことを言われた気がします。
驚いて二度見してみても、ルファルド様は相変わらずほんのわずかも変わらないお顔でいらっしゃいます。これには、それまで楽しそうにしていらしたラドファイル家のお三方も、陛下も一瞬、虚をつかれたようにきょとんとなさいました。
ルファルド様はそんなことをしれっとおっしゃるような方には見えませんし、実際、普段はそんなことを口になさる方ではありません。
あっけにとられるわたくしたちの中で、いちばん初めに我に返ったのは、誰あろう陛下でした。
「……ルドは相変わらず、可愛くないのぅ」
小さく苦笑なさって、陛下はルファルド様におっしゃいます。
「私をからかうのに、妻を使わないでください」
ルファルド様だけがまるで変わらない無表情で淡々と陛下におっしゃって、ふいと目をそらしました。
「ご用がないのであれば失礼しますよ」
ルファルド様はそう言うと、女王陛下に型どおりの礼をしました。わたくしはまだぼうっとしていたのですが、近づいてきたルファルド様がごく自然な動作でわたくしの手をお取りになったので、そのままの流れで見上げました。そのお顔は先ほどまでの無表情に比べるとかすかに和らいで、「死神伯爵」のお顔ではなくてわたくしの見慣れた「ルファルド様」のものです。
「おいで」
「え? あの……」
手を引かれて、わたくしは戸惑いました。わたくしもこのまま御前を下がって良いものなのでしょうか。
反射的に陛下の方を見ると、陛下は「行け」と言うように手を振っておられます。ラドファイル家のお三方も、苦笑しつつ見送る体勢でいらっしゃいます。
わたくしは慌てて頭を下げると、ルファルド様にしたがいました。
ルファルド様はもう退庁するつもりだったところを、陛下に呼ばれたのだそうでした。
「陛下は国王としてはこれ以上にないほど優秀なのだが、人をからかって遊ぶ悪い癖があるのだ」
王宮で借りた馬車に乗り込むと、ルファルド様はきっちりとなでつけていた髪をぐしゃぐしゃと崩しながら、ため息交じりにそう言いました。
「私をからかって遊ぶのに、貴女まで巻き込むとは」
そうつぶやくルファルド様は、先ほどとは打って変わって、げっそりと疲れたようなお顔をなさっています。
馬車は王宮の広大な庭園の中の道を歩き出しました。その窓には、道に沿って植えられた常緑の木々がゆっくりと流れて行きます。
「驚きました」
隣に座るルファルド様を見上げて言うと、ルファルド様は横目でわたくしをご覧になり、小さく苦笑なさいました。
「私もだ」
「そうですか? ルファルド様はお顔色が変わらなかったので、それほど驚いているようには見えませんでした」
「そうか、それは良かった」
そうおっしゃるルファルド様の横顔は、いつものように穏やかです。
それほど感情が全面に出ているわけではありませんが、先ほどの無表情と比べると雲泥の差がありました。
きっと、ルファルド様が「死神伯爵」と呼ばれるのはあの無表情と淡々とした口ぶりのせいもあるのでしょう。先ほどのルファルド様は、確かにわたくしも少し怖いと思いました。感情がまるで読み取れないので、不安になるのです。
「家にいらっしゃるときとは雰囲気が違うので驚きました」
わたくしが言うと、ルファルド様は落ちてきた髪をかきあげつつおっしゃいます。
「仕事をしているときは、大概あのような調子だ」
「そうなのですか?」
「顔に出すわけにはゆかないことが多いからな」
穏やかに微笑むルファルド様は、やっぱり綺麗です。きっと、いつもこうだったらそんなに怖がられないのに、とわたくしは少し残念に思いました。
お仕事ですから仕方がありませんが、ルファルド様がこんな優しい顔をなさることを誰も知らないで「死神伯爵」なんて呼ばれるのは、ひどく不公平な気がしたのです。
わたくしがそんなことを考えていると、ふとルファルド様がわたくしの方にお顔を向けました。
「貴女も随分と雰囲気が違う」
その言葉に、わたくしははっと我にかえり自分のかっこうを思い出しました。
見るまでもなく、ひらひらふんわりの可愛いかわいいドレスです。結いあげた髪にも、レースと花の髪飾りがいっぱいです。
「……はずかしいので、あまりご覧にならないでください」
わたくしは思わずそう言うと、ルファルド様に背を向け、馬車の端ににじりよりました。さすがは王宮の馬車、クッションは隅までたっぷりとしきつめてあります。
できることならばどこかに隠れてしまいたいのですが、馬車はゆっくりと進んでいるのでまだ王宮の門を出ていませんし、この中にはそんな場所もありません。
わたくしが打ちひしがれていると、「恥ずかしい?」という不思議そうな声がして、背後にルファルド様がにじりよる気配がありました。わたくしの肩に、遠慮がちにその大きな手がそえられます。
顔だけで振り向くと、ルファルド様は「どうした」と言うように小さく首をかしげていました。
「似合いませんでしょう? だからはずかしいのです」
仕方なく、わたくしはそう答えました。いじけているみたいなので、あまり口にしたくなかったのです。
ルファルド様は目を丸くしました。
「そんなことはない」
反射的にそう言って、ルファルド様は口をつぐみます。
わたくしが「似合わない」と言えば、ルファルド様のことですからそうおっしゃって下さることは予想できました。
このかっこうを見られているのと、そんなことを言わせてしまってしまったのとで、はずかしさが倍増します。
がらがらと響く車の音。
あまりのはずかしさにうつむいていると、しばらくして、火照る頬にひんやりとしたものが触れました。ルファルド様の大きな手、その指先がそっと、遠慮がちにわたくしの頬に触れています。
ゆるゆると見上げると、ルファルド様の瞳は今日も優しい雪雲のような灰色をしていました。
「よく似合っている」
ルファルド様はそうおっしゃいました。
短い言葉でしたが、そのお声は先ほどとは違って温度が感じられるものです。
その言葉の意味を理解して、――さっと耳まで熱くなるのが自分でも分かりました。ルファルド様がそういうことを口になさるのは、初めてのことです。
はずかしいのと、どきどきするのと、ごちゃまぜになってぽかんと見上げていると、ルファルド様はいくつかまばたきをしました。その頬がほんの少し赤くなっているのは、馬車の窓から入る黄色っぽい日の光のかげんでは、たぶんないと思います。それに気づいて、わたくしの心臓はさらにどきどきと高鳴りました。
「……」
「……」
しばしそのまま見つめ合い……ルファルド様は、ふとわたくしから目をそらすと座席の中央へと戻りました。その横顔は、わずかに眉根をよせていますが、怒っているのとは微妙に雰囲気が違います。
わたくしはしばらくそのお顔を眺めていましたが、ふいに、あんなにどきどきしていたのが嘘のように和らぎました。
いつものように胸がぽかぽかとしてきて、それでいっぱいになったのです。
わたくしがその隣に座り直すと、ルファルド様はわたくしをちらりとご覧になりました。目が合うと、ルファルド様はさっとそらしてしまわれます。
「ふふ」
わたくしは込みあげてくる笑みを抑えきれず、思わず小さな声をこぼしてしまいました。
それに気づいたルファルド様が、再びわたくしをご覧になります。
「ありがとうございます」
気づかってくださったのだということは分かっていましたが、それでも夫に誉められて嬉しくない妻はいないと思うのです。このくすぐったい気分はどうすることもできません。
わたくしが言うと、ルファルド様は照れたように微笑んで前を向きました。
馬車はようやく王宮の門をくぐり大通りを歩きはじめます。こうなれば、コルヒドレ邸まではもうすぐです。
ここまで可愛らしいのはやっぱり無理ですが、もう少しくらいは着飾ってみようかしらと思いながら、わたくしは残り少ない道のりをルファルド様とふたり、のんびり馬車に揺られました。