王宮から屋敷に戻り、玄関ホールを抜けて居間へと歩いてゆくと、かすかに笑い声が聞こえた。
私は一瞬、何が起こったのか分からずひどく戸惑った。生まれてこの方、二十一年。そんなことは初めてだったのだ。
この屋敷はいつでも沈黙をもって私を迎えた。人の声がしたこともあったが、それもすべて静かな抑圧された声だ。
ああ、メイサが――私の妻が、今はいるのだ。サリーが来る日だから、話をしているのだろう。
すぐにそう思い至ったが、戸惑いは消えなかった。笑い声の満ちた居間に入ってゆく自分というものを、うまく思い描くことができなかった。
しかし、そこで突っ立っていたところでどうにもならない。尻込みをしながらも居間の扉を開くと、私に気づいた笑顔のメイサとサリーが「おかえりなさいませ」と同時に言った。ふたりは顔を見合わせ、また笑う。
まだ顔を合わせて数度だが、ふたりはすっかり打ち解けているらしい。メイサは素直な人だから、サリーに限らず誰でも心を開きやすいのだろう。
メイサは私に近づくと、背伸びをして私の頬にキスをした。私も同じように返す。無事を祈るまじないだと、分かってはいるがなかなか慣れない。
「ずいぶん楽しそうな声が聞こえたが」
「今、サリーさんにお茶の淹れ方を教えてもらっていたんです」
サリーの手前、照れ隠しもあってそう聞くと、メイサは特に気にする風もなくそう答えた。テーブルにはティーポットとカップがいくつも置いてある。「そうか」と相槌を打つと、メイサは「まだうまくいれられませんが」と少しばかり眉尻を下げて力なく笑った。
「あんまりひどいので、笑ってしまっていたんです。ねぇ、サリーさん」
「いえ、その……」
サリーはばつが悪そうに視線を泳がせている。家人として、女主人であるメイサが茶を淹れるのが下手だと肯定するのは憚られるのだろう。
私は再びテーブルを眺めた。我が家の茶は私が庭で片手間に栽培したハーブを使ったハーブティだ。澄んだ薄い色の香り高い茶が並ぶ中、一脚だけ妙に色が濃く微妙に濁った茶がある。
「貴女が淹れたのは……これか?」
私がそう聞きながらそのカップを手に取ると、メイサは「分かりますか」と目を丸くした。カップを顔に近づけても、なぜか香りがまるでしない。
結婚して半月あまり。メイサは本当によく家事をしてくれているし、食事はいつも美味しいが、意外にこんなことが苦手なのか。可愛らしい弱点に、笑みが浮かびそうになる。
そのまま口に運ぼうとすると、メイサが悲鳴を上げた。
「え……ああああっ、ダメ! 飲んではダメです、ルファルド様!!」
私の手にあるカップを奪おうと、彼女はとっさに手を伸ばした。しかし、小さなメイサの手は届かない。
一口、口に流し込んで――想像以上の味におもわず吹きそうになった。
渋い。そしてエグい。それ以外の味がさっぱりしなくて、口に含んでみても香りがない。
「ああああああ……」
私が目を白黒させていると、メイサが絶望的な声をあげた。サリーは神に祈るように両手を組み、天井を仰いでいる。
私はどうにかそれを飲みこんで、カップの中の茶色い液体を眺めた。
普通に淹れても、こうはならない。ハーブしか使わず、なぜこんな味になるのだ。しかもあの料理上手なメイサが淹れたというのに。……さっぱりわけが分からない。
「は、はやくサリーさんが淹れたお茶で口直しをっ!」
私が柄にもなくカップと見つめあっていると、メイサが慌てたように私に別のカップを勧めた。サリーが淹れたらしい、澄んだ薄茶色の、おそらく模範的な茶。
それと、手の中のカップを交互に見比べる。
よくよく見比べて――わたしは手の中のカップをあおった。
「ルファルド様!?」
「旦那様!?」
メイサとサリーが同時に、同じように頓狂な声を上げる。私はごくごくと勢いよくカップの中身を飲み込んだ。
やはり渋い。そしてエグいが、そういうものと分かっていれば、先程のようなダメージはない。
すっかり飲み干し息をつくと、涙目のメイサが私を見上げていた。メイサはもう声にもならないようで、ぱくぱくとそのふっくらとした可愛らしい唇を閉じたり開いたりしている。
メイサとサリーが顔合わせをした初日。
サリーはこっそりと私に耳打ちした。
「良い奥様をもらわれましたね」
どうしてそう思ったのかと聞くと、私が茶を好むことを知ったメイサが淹れ方を教えてほしいと言っていたと教えてくれた。
嬉しかった。
メイサは政略で結婚した私と、それでも懸命に心を通わせようとしてくれる。
だから初めて飲んだメイサの茶は、味は渋くても私の胸を温かくした。サリーの茶はもちろん美味いが、今の私に必要なのはメイサの茶だ。
「……確かに美味くはないが、飲めないほどではない」
覚悟さえできていれば。その言葉は飲みこんで、小さなメイサの素朴な黄金色の髪をそっと撫でる。
「また淹れてくれ」
私が頼むと、目を丸くしたメイサは、一瞬、表情を崩した。
今にも泣き出しそうな顔。
どうしてそんな顔をするのかと、けれど私は聞きそびれた。
メイサが、花開くように笑ったのだ。見る者の胸に花を咲かせるように。ふわりと、甘く柔らかな香りが広がったような気さえした。
「はい。でも、練習してからです」
思わず見とれていると、メイサはそう答えて、空になったカップを私の手から受け取った。
くるりと向きをかえ、サリーに言う。
「サリーさん、また教えてくださいね」
「もちろんです奥様」
サリーも満面の笑顔でそう答える。品の良い微笑みしか見たことのなかった、サリーのこんな顔を引きだすことができるのも、きっとメイサだからなのだろう。
秋の穏やかな黄昏の日が差し込む。
まぶしくて、私は目を細くした。