永遠はミモザの香り 番外編・ひかり

01

 夕刻。
 いつものように王宮から戻り、いつものように庭の手入れをして、いつものように湯を浴びた。
 だるく重たい身体をひきずって居間へと向かう。扉を開けると、酸味の強い、食欲をそそる匂いが真っ先に私を出迎えた。見ると、食事用のスペースでは既にメイサが皿を並べている。メイサは今日も質素な服に、それだけが真っ白な前かけをしている。
 いつもの景色。
 幼い頃には使用人がたくさんいて、私は大抵、今は使っていない食堂でひとり、給仕されながら食事をした。それなのに、どうしてだろう。無性に懐かしいような、ほっとするような、そんな気分になる。
 息をつく。失望に零れる以外のため息を、私はこのごろ初めて知った。

「今日の夕食はリコトのスープか」
 気を取り直してそう声をかけると、それで私に気づいたメイサが顔を上げた。
「はい。もうじきにできますから、おかけになっていてください」
 緩やかに微笑む。メイサは言いながらパンを皿にのせた。温めてあるのだろう。微かに湯気が上がっている。
 私が食卓につくと、取り分けたスープが私の前に置かれた。脇の小皿には珍しく焼き菓子が少しばかりのっている。以前、メイサが作ってくれたことのある、素朴な味の菓子だ。
「菓子もあるのか。今日は随分と豪勢だな」
 よく見れば、温められたパンはいつものライ麦パンではなく白パンだし、リコトのスープには干し肉や野菜がごろごろと入っている。
 私の言葉に、メイサは小さくふふふと笑った。
「仕立てたシャツがお金になったので、少し贅沢をしてみました」
 そう言うメイサは、実に嬉しそうだ。
 たぶん、他で働いたこともないだろうから、メイサにとっては初めての収入だろう。
 彼女に無理をさせるのではないかという不安は、杞憂で済んだようだ。嬉しそうに笑うメイサを見ると、私も心が和む。反対しなくて良かったと胸を撫でおろし、ふと思った。
「良いのか?」
 自分用のスープを皿に取り分けていたメイサは、私の疑問に首を傾げる。私は言葉を続けた。
「その……貴女がせっかく稼いだものを使ってしまって。もっと貴女のためになることに使えば良いのに」
 メイサは決して口にはしないが、欲しいもののひとつもあるだろう。そう思ったのだが、私の言葉にメイサは笑った。
「おいしい食事は十分にわたくしのためになることです。ルファルド様も一緒に喜んでくださったら、もっとわたくしのためになるのですけれど」
 私の向かいに座りながら、おどけるようにメイサは言う。そのいたずらっぽい笑顔が愛らしい。
 思わず笑みがこぼれた。
 メイサの喜びは私の喜び。私の喜びはメイサの喜び。それは、何と愉快なことだろう。
「そうか」
「はい」
 胸が温かなもので満たされて、短く相槌を打つと、メイサも短く答えた。
 言葉にはならなくて、ただ笑みを交わす。
 私たちは揃って指を組み、目を伏せた。
 いつも捧げる神への祈りが一層大切なものに思えて、私は一言ひとことゆっくりと誓文を紡いだ。

君は私の、に続く5つのお題 01.幸せ

02

 書斎で書き物をしていると、こつこつと控えめに扉を叩く音がした。廊下側ではなく、寝室側の扉だ。丁度きりの良いところまで書き終えたところだったので、返事をする代わりに自ら扉を開くと、寝着姿のメイサがそこに立っていた。おろした長い髪が、仄かな月明かりに金貨のようにきらきらと輝いている。
 少しばかり面喰った。メイサは、私が書斎に籠っている時には、声をかけたことなどまずない。私は別に構わないのだが、たぶん、仕事をしているのだと分かっているからだろう。
「どうかしたのか?」
 何かあったのかと思いそう聞くと、しかし、メイサは首を横に振った。
「お邪魔をして申し訳ありません。もう遅いので、まだお休みにならないのか、どうしても気になって……」
 メイサの頭越しに寝室の窓を見れば、月はすっかり天に昇りきっている。
 気遣わしげに私を見上げる。メイサの深いオリーブ色の瞳は優しくて、ふと心が和らいだ。温かい湯につかった時のように、じんわりと、仕事で強張った心がほぐれてゆく。
「ああ……もう休もう」
 私が答えると、メイサは安堵したように微笑んだ。私は書斎へ戻り、机の上をざっと片付ける。燭台を手にして部屋を出ると、メイサは扉のところで私を待っていた。
 どちらからともなく並んで歩き、寝台へと向かう。途中、メイサは窓のカーテンを閉め、私は燭台を枕元に置きメイサが追いつくのを待って火を消した。
 部屋は暗闇に落ちる。辺りが静まり返っているので、自分とメイサがわずかに動く、その音がやけに大きく聞こえる。
 寝台にもぐりこむと、日の光をたっぷりと浴びた布団は、ふかふかとして温かかった。日の匂いは心地よく、私は目を閉じ大きく息をつく。
 身体はひどく疲れている。しかし、メイサがほぐしてくれたので心は軽い。目を閉じているとそのまま眠りに落ちてしまいそうで、私はつぶやくように言った。
「おやすみ」
 自分の声はもう遠い。それも随分と眠たげで、私は内心、苦笑した。何とだらしのないことだろう。
「おやすみなさい」
 しかし、私に応えたメイサの声は、どこまでも温かかった。耳元でさわさわと衣ずれの音がする。
 メイサが布団を肩まで掛けてくれる。この頃、急激に冷たくなった夜風を遮って、ぬくもりが私を包み込む。メイサの、子どものように骨ばったところのない小さな手。その手が、そっと私の額を撫でた。
「……良い夢を」
 子守唄でも歌うかのような、優しい声が耳元で囁いた。頬には温かな口づけ。
 隣でみじろぐメイサの気配に、どうしようもなく安心して、私は今度こそ深い眠りへと落ちて行った。

君は私の、に続く5つのお題 02.癒し

03

「ルファルド様、ルファルド様」
 小鳥がさえずるような声に呼ばれ、私は目を覚ました。まだ暗い寝室を、仄かな燭台の灯りが照らしている。その小さな光の中、メイサが花開くように微笑んだ。彼女はすでに朝の身じまいを済ませていて、素朴な黄金色の髪はゆるくまとめられている。
「おはようございます」
「……おはよう」
 私が応えると、メイサは燭台を枕元に置いて窓のカーテンを引いた。闇はまだ濃く、日の気配は遠い。空気が冷たくて、寝台から出たくない。
「ルファルド様、起きてください」
 温かな寝台から離れるのが名残惜しくて、ぐずぐずしていると、枕元に戻ってきたメイサが私の腕を引いた。じきに冬。冷たい朝の空気に身震いすると、メイサが上着をかけてくれる。
 私は仕方なく眠気を追い払うように首を振り、一息つくと寝台から抜け出した。メイサは寝具をたたむ。私はそれを横目で眺め、のろのろと扉へと向かった。

 作業着に着替え、井戸水を汲み上げる。愛用している大ぶりな水差しにそれを移して、私は庭へと出た。欠伸を噛み殺しながら水をまく。もう少しすれば、霜柱ができる季節だ。空気は冷たく、鼻や耳が痛い。
 眠い。寒い。そうは思うが、苦痛ではなかった。
 私は至って穏やかな気分で水をまき、草木の様子を見る。
 寒くなって花は少なくなったが、いくつかの木々は今にも開きそうなふっくらとした蕾をつけている。売り物になるような珍しいものではない、何の変哲もないものだが、じきに白い可憐な花が咲く。私はその枝をひとつ、切り落とした。
 食卓に飾ったら、メイサはきっと喜んでくれるだろう。あの深いオリーブ色の瞳を輝かせて、子どものように無邪気な顔で嬉しそうに笑うメイサ。その様子を思い浮かべるだけで、胸に力が湧く。
 私は決して万能などではないし、無力感を味わうことも多々ある。それでも、メイサが喜ぶ姿を想うと、自分はどんなことでもやり遂げることが出来るのではないかと感じるのだ。

 以前は、ただ残された負債をどうにかすることばかりを考えていた。それ以外に為すべきことなど思ってみたこともなく、そのまま私の一生は終わってゆくのだろうと思っていた。
 だから、知らなかった。
 誰かを喜ばせたいと願う。それがこんなにも自分の心を強くする。

 空はようやくうっすらと明るみ出す。今日もまた、一日が始まるのだ。
 出勤すればきっと仕事が山積みだろうが、心は不思議と軽い。
 私は水差しを片付けると、白い蕾をつけた木の枝を手にして居間へと向かった。

君は私の、に続く5つのお題 03.勇気

04

 朝、私が庭の手入れをしているとき、メイサは大抵テラスで洗濯物を干している。
 今日も、切り落とした木の枝を手に屋敷へと歩いてゆくと、彼女はテラスで毛布を干そうとしているところだった。
 小さなメイサは、折りたたんだ毛布を勢いよく物干しに掛け、それを徐々に開いてゆく。その手付きは慣れたものだが、精一杯に背伸びをしてちょこちょこと作業をしている姿は、微笑ましくも危なっかしい。
 大丈夫だろうか、と危惧した。その途端、メイサは、ふらりとバランスを崩した。
 心臓が大きく波打つ。何かを考えるよりも先に慌てて駈けよったが、距離があって間に合わない。
 後から考えれば、勢いがついているわけでもなし、例え転んでも大した怪我にはならないはずだ。そこまで慌てる必要はない。しかし、大げさだがその時は本当に心臓が止まるかと思うほど怖くて、夢中で走った。
「ル、ルファルド様?」
 気づくと私は、自力で体勢を立て直しバランスを取るように両手を広げたメイサをがむしゃらに抱きよせていた。メイサは何が起こったのかよく分かっていない様子で私を見上げる。
 そのオリーブ色の瞳を見て、ようやく息をついた。止まった心臓が急に動き出したような気がして、耳の奥でどくどくとその音が響く。きつくメイサの肩を抱く、自分の指がみっともなく震えていることに気づいて、私はその手を緩めた。
「どうかなさったのですか?」
 メイサは驚いたように目を丸くしたまま、私を見上げている。
 もう一度、今度は意識して強く息をつく。それでようやく震えが止まった。首を横に振り、確かめるようにメイサの頬に触れる。
「心臓が止まるかと思った」
 私の言葉に、メイサは首を傾げた。状況がよく分かっていないらしい。
 無理もない。この程度のことでこれほど動揺するなど、今までなかったことであるし、自分でも大げさだと思う。
 けれど、致し方ない、とも思うのだ。
「今度、踏み台を用意しよう」
 つぶやくようにこぼれた声は、我ながらしみじみとしたものだった。本当に、すぐにでも用意しなくては、少しも安心していられない。
 ラサルガに頼んでおこうと心に決め、後で手紙を書かねばと思っていると、メイサはさっと頬を染めた。
「ご覧になっていたのですか!」
 叫ぶように言う。メイサはきょろきょろと周囲を見渡し、私を見上げて、ぱくぱくと口を閉じたり開いたりしたかと思うと、うつむいて「うぅ」と小さくうめいた。
「忘れてください……」
 恥じ入るような様子でそう言って、涙目で私を見上げるメイサ。不謹慎だが、その姿が愛らしく、私の心はうち和んだ。
 このメイサに何かあったらと思うと、私は恐ろしくて仕方がない。
「気をつけてくれ」
 心の底から、私は言った。
 オリーブ色の瞳がひたと私を見つめる。
「はい」
 メイサはこくりと小さく頷く。私は彼女の小さな頭に手を置き、神の加護があるように心から祈った。

君は私の、に続く5つのお題 04.弱点

05

 空はうっすらと明るみだしたが、今日は雲が立ち込めているらしい。ぼんやりとした空の色を眺めながら、私は花瓶に花を挿した。先ほど慌てて落としたので少しばかりくたびれてしまったが、手折ったというのに打ち捨ててしまうのは心が痛む。
 それから湯を浴び、身じまいを済ませて居間へと戻ると、メイサはもう朝食の準備を終えたらしく、整えられた食卓で頬杖をついてその花を眺めていた。
「気に入ってもらえただろうか」
「ルファルド様」
 食卓につこうと椅子を引きながら私が声をかけると、メイサは顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「はい。いつもありがとうございます」
 弾んだ声でそう言った、メイサは本当に嬉しそうに笑う。その笑顔に胸が詰まって、私は椅子に腰かけると思わずうつむいた。
 私が飾った花は、決して珍しいものではない。むしろ、ごくありふれた地味な花で、とても売り物にはならない。陛下には朴念仁だとさんざからかわれている私でも、女性へ贈るようなものではないと分かっている。
 それでも、今の私には精一杯の贈り物なのだ。
 不甲斐ないことだ。私のような者の妻となって、文句の一つも言わず何くれとなく支えてくれるメイサに、こんなことしかできない。
 申し訳がなくて、しかしそれでも喜んでくれるメイサの心がどうしようもなく貴いものに思えた。
 途方に暮れる。私はこの幸福を、一体何にどう感謝すれば良いのだろう。
「ルファルド様? どうかなさいましたか?」
 メイサの声に顔を上げると、彼女は不思議そうに首を傾げていた。私を見つめるその顔は、女神・アリアロンのように慈愛に満ちている。
 ああ、まるで光のようだと、何の脈絡もなく思った。天上から降り注ぐ、神の祝福。
 そうであれば、きっと私はメイサに感謝すれば良い。この胸を満たす想いの分だけ、精一杯に。
「否……何でもない」
 だから私は微笑んで見せた。他の人間ならば顔をひきつらせるだろうが、メイサは私が笑っても怯えた顔などしない。むしろ、安堵するように小さく息をついて、彼女は私を見上げた。
 死神と呼ばれる私を照らす、光。
 全てを捧げよう、と思った。その深く優しいオリーブ色の瞳が、喜びに輝くように。私の何もかも。持てるものは全部、すべてを彼女に。
 それはたぶん、私が生まれて初めて心から願った希望だった。
「食べよう」
「はい」
 私の言葉に、メイサは指を組み、目を伏せる。
 その姿を見つめながら、私は生まれたての誓いを胸に刻んだ。

君は私の、に続く5つのお題 05.一筋の光

君は私の、に続く5つのお題
シュレーディンガーの猫 様からお借りしました

(C) まの 2009