大聖堂での式を終え、コルヒドレ家の大広間での披露パーティーも終えて、招待客のすべてが引きはらったときには、もう月が天の真上に昇っていました。お父さまがこの日のために雇った人々が、大広間の片付けを終えて帰られたのはさらにその後です。
最後のさいごにお父さまを見送ると、自然とため息がこぼれました。こんなに疲れたのはずいぶんと久しぶりです。
わたくしが息をつくのと同時に、となりからもため息が聞こえました。見上げると、疲れたお顔をなさったルファルド様がわたくしを見ています。
「……」
「……」
見つめ合い――思わず笑みがこぼれました。どうやら気持ちはひとつのようです。ルファルド様も苦笑いを浮かべています。
「疲れましたね」
「……ああ。本当に」
わたくしの言葉に答えたルファルド様のお声には、実感がこもっていました。
ルファルド様はもういちど小さく息をつくと、遠慮がちにわたくしの肩に手を置きました。片付けをしているあいだにお湯をいただいて着替えたので、薄い夜着ごしにその大きな手の温かさがじんわりとしみるようです。
「もう休もう」
「はい」
広い、広すぎるお屋敷なので、わたくしにはまだどこが何のお部屋なのかさっぱり分かりません。階段をのぼり、長い廊下を進んで、導かれるままについてゆくと、ルファルド様はやがてスミレの花の飾り彫りが施された扉の前で足を止めました。
「ここが寝室だ。手前が貴女の私室、奥が私の書斎で、どちらも寝室につながっている」
扉を開くと、寝室としては十分すぎるほどに広いお部屋のほぼ中央を、これはまた大きな、王様が眠るような寝台が陣取っています。月明りとルファルド様が持っている小さな燭台の灯だけが頼りなので、はっきりとは分かりませんが、きっと淡い色を基調とした落ち着いたお部屋なのでしょう。その左右に、先の扉よりは質素な扉があります。
ルファルド様はわたくしから離れて部屋の奥へと歩いてゆくと、天井までとどく大きな窓にかかったカーテンを引きました。月明りすらさえぎられて、辺りはいちだんと暗くなりました。
闇に沈んだ部屋を横切って、ルファルド様は寝台を回り込みます。静かな部屋ではその足音も響くように大きく、ルファルド様が枕元の低いテーブルに手にしていた燭台を置くと、ゆらり、とその灯が大きく揺れて細長い影も揺らしました。
とく、とくと。まるで何かを急かすように早くなる鼓動を感じて、わたくしは戸惑っていました。さっき、この部屋に入るまでは少しもそんなことはなかったのに、胸が苦しくて身体がどうしようもなく震えるのです。
「おいで」
困り果て、扉のところで立ちつくしていたわたくしは、ルファルド様に呼ばれておずおずと歩み出ました。ゆっくり、できるだけゆっくりと歩きましたが、いくら広いとはいえ寝室です。小さく揺れるろうそくの灯りの中、あっという間にそのお顔がはっきりと見えるくらいまで近づいて、わたくしは足を止めました。
顔を上げることができませんでした。今やわたくしの心臓は、喉から飛び出してしまいそうなのです。
びくとも動けずに固まっていると、ルファルド様はそっとわたくしの両の手を取りました。大きな手が、式のときと同じように、壊れものでもあつかうような丁寧さでわたくしの手を包み込みます。
「……震えている」
やがて、ルファルド様はぽつりとつぶやくようにおっしゃいました。気づかいのにじむそのお声にゆるゆると顔を上げると、灰色の優しげな瞳が案じるようにわたくしをじっと見つめています。
「緊張して、いますから」
わたくしはそう答えるのが精一杯で、その声すら震えていました。根がのんきなので、こんなに緊張するのは生まれて初めてです。一体、わたくしは、どうしてしまったというのでしょう。
灰色のその目が優しければ優しいほど、よけいに胸が高鳴って、まっすぐに見ていられなくなったわたくしはまたうつむいてしまいました。
何とか落ち着こうとは思うのですが、どうにもなりません。
そのとき、不意に腕が強く引かれました。倒れ込みそうになってとっさに手をつくと、ふわりと何かに包み込まれて、わたくしはきつく目を閉じました。
何が起こったのか、すぐには分かりませんでした。抱きしめられているのだとようやく気づいたのは、自分のものではない震える息づかいを近くに聞いたからです。
「私も、緊張している」
ルファルド様はわたくしの耳元で、ささやくようにそう言いました。その腕が、そっと、そっとわたくしの背を締めつけます。先ほどわたくしの手を取ったあの大きな手が、わたくしの髪をかきあげるように撫であげて、わずかに力が入り胸に押し当てるようにしました。
わたくしの耳に届いたのは、ルファルド様の心臓の音。
どくどくと、早鐘を打つその鼓動に驚いて顔を上げると、かすかに眉尻を下げて困ったようなお顔をしたルファルド様がわたくしを見ていました。
――ルファルド様も、わたくしと同じように緊張していらっしゃる。
その事実に、わたくしのはりつめていた感覚はふっとゆるみました。ルファルド様も同じ気持ちなのだと思うと、何だかほっとしたのです。
もういちどルファルド様の胸に耳をあてると、変わらず早い鼓動が聞こえました。その大きな手はわたくしの頭をぎこちなく、けれどこの上もなく優しく撫でてくださいます。
夏ももう終わり、肌寒い夜にわたくしを包み込むルファルド様の匂いと温度は心地よく、眠ってしまいたくなるほど安心して、わたくしは目を閉じてうっとりしていました。
「……メイサ」
どのくらいそうしていたのでしょうか。ルファルド様がわたくしの名を初めてお呼びになりました。その胸に耳をあてたまま顔を上げると、ルファルド様は目を細くしてわたくしを見ています。
わたくしの頭を撫でていたその手が、そっとわたくしの頬を包みました。
「私は……貴女と。共に、生きてゆきたいと、思っている」
一言ひとこと丁寧に、ルファルド様はおっしゃいました。その指がわたくしの頬にかかった髪をはらい、灰色の瞳がわたくしの目をまっすぐに射ぬきます。
わたくしは魅入られたように、ただその瞳だけを見つめていました。とくん、とくんと脈を打つ、ルファルド様の心臓の音とともに、そのお言葉は沁みわたるようにわたくしの内に入ってきます。
「私と、生きてくれるだろうか」
飾り気のない、まっすぐで真摯な言葉。真剣な灰色の瞳。
胸がいっぱいでした。
ルファルド様が誠実な方だというのは、お父さまからも聞きましたし、いただいたお花やカードからもなんとなく分かっていました。それでも、政略で結婚したわたくしに、こんなに心づよいお言葉をかけていただけるとは思ってもみなかったのです。
「はい、ルファルド様」
わたくしはルファルド様のおこころざしに応えたくて、精一杯、その名を呼びました。わたくしの頬にあてられたその手を取って、そっと胸に抱くと、熱いものが込みあげてきます。
きっと、庭仕事をなさるからでしょう。少し荒れてがさがさとした、大きくて温かい手。わたくしはこれからずっと、ずっと、この手を取って生きてゆくのです。
「おそばにいます」
顔を上げ、しっかりとルファルド様の瞳を見つめてそう言うと、ルファルド様は目を細くしました。
ほっとしたように長く息をつきながら、ゆっくりとわたくしを包み込むルファルド様の腕。いっそう強く抱きしめられて、その息づかいが近くはっきりと聞こえます。
「ありがとう」
耳元でささやいたお声は、穏やかで優しいものでした。
――わたくしは、なんて幸せな花嫁なのでしょう。
やがて、そっと身体を離すと、ルファルド様は再びわたくしの頬をその手で包みました。ゆっくりとそのお顔が近づきます。わたくしは目を閉じました。
二度目の口づけ。
式のときと同じように軽やかでやさしい口づけは、けれどわたくしのくちびるを、胸を、燃えるように熱く焦がしました。
ルファルド様の腕の中、きつくきつく抱きしめられて、めまいがするようなぬくもりに、わたくしは目を閉じました。
翌日、目が覚めたのは日がもうずいぶんと高くなってからでした。
「今日は貴女に、屋敷の案内と、家人を紹介しよう」
昨夜の残りもののスープとパンで、遅い朝食と早い昼食をまとめた食事を摂っていると、ルファルド様が言いました。
居間の一画をしきった、こぢんまりとしたスペース。食堂は一人二人では広すぎるので、ルファルド様が食事用にご自分でつくられたというそのスペースには、四人がけのテーブルと小さな鉢植えがいくつか置かれています。東向きなのでしょう、日の光がいっぱいに入る、気持ちの良い場所です。
着古した白いシャツに黒のズボン姿のルファルド様は、飾り立てていた昨日よりもさらに細くやせて見えます。パーティーまではきっちりと撫でつけていた髪もおろしたままで、くるくると弧を描いています。こうしていると、二十代後半くらいの印象です。きっと、これが常のルファルド様なのでしょう。
わたくしは答えました。
「広いお屋敷ですね。聞いてはいましたけど、覚えるのに時間がかかりそうです」
わたくしはいくつかのお屋敷に出入りしたことがありますが、こちらのお屋敷は王都にあるとは思えないほど広大です。昨日はあまり見ていないのでまだよく分かりませんが、田舎の、それほど狭い方でもないわたくしの実家とそう変わらないのではないでしょうか。王城近くの一等地にこれだけのお屋敷など、そうそうありません。
わたくしの言葉に、ルファルド様はティーカップを置いて答えました。
「今はほとんどの部屋を使っていないから、よく使う場所だけ覚えれば問題ないだろう」
「はい。家人の方は三人でしたか」
「ああ、そうだ。資料を渡してあったか」
「ええ、一通り」
婚約中に、お父さまから本当に山のような資料を渡されたのです。コルヒドレ家の歴史やら、縁戚関係、資産状況に現在の政治的状況などなど、膨大なものでしたから、一通りは目を通しましたがまだ全部は覚えきっていません。嫁入り道具と一緒に持ってきましたから、これからしばらくはそういったことを覚えながら、こちらの生活に慣れるようにすることになるのでしょう。
その資料の中に、家人の項目もありました。たった三人なので、印象に残ったのです。しかも、普通はお屋敷に住み込みだと思うのですが、三人とも通いだと書いてありました。
「そうか。昼過ぎと言っていたから、食事を終えた頃には来るだろう」
案の定、ルファルド様はそう言いました。わたくしは「はい」と答えて、残りのスープを口に運びました。
事前にいただいた資料によると、ルファルド様は十二歳でお父さまを亡くされ、コルヒドレ家を継いだのだそうです。その折りに莫大な借金が発覚し、それを清算するためにかなりの財産を処分されたそうで、使用人もすべて解雇したといいます。
ただ、古くからコルヒドレ家にお仕えしていた一部の方は、自発的に残ったのだそうです。そうはいってもお給金は出ませんから、そういった方々は外で別にお仕事を持って、それでもなおコルヒドレ家に残ってくださったのだそうです。
「ルファルド様が十五で成人されるまではかなりが残っていたそうだが、その後はさすがに生活が続かないからと一人減り、二人減り、今では三人が通いで時々、来てくれているだけだそうだ。だからあの方は、彼らを『使用人』とは決して呼ばない。家族のような存在だからだろう、必ず『家人』と呼ばれる。おまえならば大丈夫だろうが、気をつけなさい」
資料を見て質問したわたくしに、お父さまはそう言いました。わざわざお父さまが注意するくらいですから、ルファルド様は本当に家人の方たちを大切にしておいでなのでしょう。
わたくしもお仲間に入れていただけるかしらと、どきどきしながら待っていると、そのお三方は約束どおり、日が真上に昇りきりわずかに傾いたころお屋敷にやって来ました。
「おめでとうございます、旦那様」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
エントランスホールで出迎えると、三人は開口一番、お祝いの言葉を述べてルファルド様に笑いかけました。ルファルド様も、「ありがとう」と、昨日の招待客の方々に対してよりも嬉しそうなご様子でお答えになります。その様子からも四人の信頼関係をうかがうことができるようです。
わたくしは昨日と同じようにルファルド様の斜め後ろに控えてその様子を見ていました。
ひとりは白髪の目立つ黒髪の初老の男性。五十代か、六十代くらいでしょうか。厳格そうな、貫録のある方です。この方が、きっと執事のラサルガさんでしょう。
その隣、ラサルガさんと同じくらいの年代とおぼしき女性が、侍女長だったというサリーさん。この方は栗色の髪に、たれ目が優しそうな品のよいご婦人です。
背の高いルファルド様よりもさらに大きくて、立派な体格の青年が乳母子のハイルさんでしょう。ルファルド様よりは年上だったと思いますが、年相応の顔立ちなので年下に見えます。
「メイサ、これが私の家人だ。左から、ラサルガ、サリー、ハイル。覚えておいてくれ」
わたくしが観察していると、あいさつを終えたルファルド様が三人を紹介してくれました。三人はルファルド様の言葉に合わせて深々と頭を下げられます。
こういうことには、いつまで経っても慣れません。お父さまはご自身で爵位を得ましたが、わたくしはただ単にその娘というだけで何をしたわけでもありませんから、こんな風に丁寧に扱われると何だかこちらが申し訳ないような気分になるのです。
「メイサと言います。よろしくお願いします」
わたくしはマナー違反にならないぎりぎりの丁寧さでそう言い、軽く会釈をしました。これ以上は、逆に相手を恐縮させてしまうでしょう。
「お初にお目にかかります、奥様。ラサルガと申します。お屋敷の管理をさせていただいております。サリーは家事全般、ハイルは旦那様の手伝いをいたしております」
ラサルガさんが三人のリーダー的存在らしく、代表でそうあいさつしてくれます。サリーさんとハイルさんもそれに同意するように、にこやかにうなずいています。
なかなか良い雰囲気です。
それから、わたくしはラサルガさんとサリーさんにお屋敷を案内してもらいました。お屋敷全体のことはラサルガさん、台所やランドリーなど、家事に関係することはサリーさんに直接聞くのが早いだろうという、ルファルド様のご配慮です。
その間、ルファルド様とハイルさんは庭仕事をしながらお話をされていたようです。
「お茶を淹れましょう」
ひと通りお屋敷のよく使うところを見て回って、お庭にいるふたりを見つけると、サリーさんが言いました。ラサルガさんはそれを聞いてテラスのテーブルをつくりに行き、わたくしはサリーさんについて台所へと向かいました。
「ルファルド様はいつもこのくらいの時間にお茶をなさるのですか?」
「そうですね。時間と申しますか……旦那様は、庭仕事の合間にのんびりとお茶を飲まれるのが、この上もない幸せなのだそうです」
わたくしの質問に、サリーさんは微笑んでそう答えながらお茶の準備をしました。さすがに長年、侍女長を務めただけあって、サリーさんは複雑な手順をいとも優雅な手つきでこなします。
お茶というのは単純なようで実に奥深いもので、茶葉の種類やその日の気候によって微妙に調節をしながら淹れないと、本当においしいものはできません。
「あの、今度お茶の淹れ方を教えてもらえますか?」
銀のトレーに用意したものをのせながらそうお願いすると、サリーさんは一瞬、目を丸くしました。けれど、すぐに微笑んで「もちろんです、奥様」と言ってくれたので、わたくしはほっとしました。
残念なことに、わたくしはお茶を淹れるのが苦手なのです。