テラスでおいしいお茶をいただき、三人が帰ったのは夕刻に近くなった頃でした。
わたくしは先ほど教えていただいたばかりの食物庫へゆき、夕食の支度にとりかかりました。ルファルド様はお庭の水まきです。
まだ勝手がよく分からないので、スープとちょっとしたおかずを一品つくって、朝昼食を摂ったダイニングスペースへと運びました。ちなみに、本当の食堂も見せてもらいましたが、確かにたったふたりであんなに広いところで食べるのは嫌かもしれません。まちがいなく、三十人は一度に食事を摂れそうな広さなのです。
わたくしがテーブルの上をととのえていると、ルファルド様が戻って来ました。お湯を浴びられたのか、濡れた黒髪が艶っぽく、少しどきどきしてしまいます。
「もうできますから、お座りになってください」
目をそらし、鍋から適当に選んだお皿にスープをよそいながら言うと、ルファルド様は「ああ」と小さくつぶやくように答えてお座りになります。わたくしはスープ皿をルファルド様の前に置き、自分の前にも置くと席につきました。
ルファルド様はそれを確認すると、食前のお祈りを口にしました。わたくしは慌てて両手を組み、目を閉じます。恥ずかしながら、あまり敬虔なテラリス聖教の信者ではなかった我が家では、食前のお祈りはしなかったので、まだ慣れないのです。
「かくあれかし」
「かくあれかし」
最後の決まり文句を言うと、ルファルド様は顔を上げて「食べよう」とわたくしに声をかけてくださいました。銀のスプーンを手に取り、口に運びます。わたくしはそれをじっと見ていました。
「お味はいかがですか？」
「ああ……美味しい」
「濃すぎたり薄すぎたりはしませんか？」
「ちょうど良い」
ルファルド様は静かな口調でそう言って、もくもくと召し上がります。昨日のパーティーの食事がどちらかといえば薄味だったので、それに合わせて作ってみたのですが、それで良かったということなのでしょうか。
美味しいとは言ってくださいましたが、ルファルド様はあまりお顔に表情が出ないようなので、本当にそう思ってくださっているのか、いまいち自信がありません。
「あの、何かお気に召さないところがあったら、遠慮なさらずに教えてくださいね？」
だからわたくしは、そう聞きました。傷は浅いうちに直してしまう方が良いのです。気に入らないことはすぐに言ってもらう方が、正しやすいでしょう。
ルファルド様はわたくしの言葉に、いちどわたくしをまじまじとご覧になると、スプーンを置いてわたくしをまっすぐに見すえました。
「……感謝こそすれ、気に入らないことなどない。貴女にここまでさせて、申し訳ないと思う」
ルファルド様はゆっくりと言いました。その大きな身体がこころなしかしゅんとして、小さく見えます。
わたくしは首をかしげました。
「父がお話をしませんでしたか？ わたくしはこういうことが好きなのです」
食事を作るのも、お掃除も、縫い物も大好きです。子どもの頃、どれも一生懸命にするとお父さまが本当に喜んで笑ってくれました。
……縁談がまとまって、コルヒドレ家の現状も分かって、「家事をしても良いのですか」と聞いたら苦笑いなさっていましたが。それでもお父さまは、「ではルファルド様にお話しておこう」と言っていたのです。お父さまのことですから、そういうことは抜かりないと思っていたのですが、しっかり伝わっていなかったのでしょうか。
ルファルド様はわたくしの言葉に「聞いてはいる」と答えました。
「だが……本当ならば、貴女はなに不自由なく暮らせるはずだったのに」
わたくしに罪悪感を持っているのか、ルファルド様はますますしゅんとされます。
確かに、わたくしはなに不自由なく暮らせるご身分でした。……望んでいたことでは、ありませんでしたが。
だから、わたくしとしてはこの方が暮らしやすいのですが、それを理解してもらうのは、なかなか難しいことのようなのです。今まで何人かに説明しましたが、本当に理解してくれたのはお父さまだけでした。
ルファルド様にも理解していただければ嬉しいのですが、ゆっくりと分かっていただく努力をするのが正解でしょう。
だからわたくしはこう答えました。
「本当にお気になさる必要はありません。わたくしは自分が好きでやっているのです。それに、そうやってお気づかいいただくのは嬉しいですが、これからずうっとご一緒するのですから、そんなに遠慮なさらないでください。他人行儀は寂しいです」
「……」
ルファルド様はまだ悲しげなお顔でわたくしのことを見ています。
わたくしが欲しいのは、謝罪ではありません。だからわたくしは笑いました。
「お食事はおいしい方が幸せです。だから、教えていただける方がわたくしも嬉しいです。わたくしは、ルファルド様と幸せになるためにここに来たんですから」
ルファルド様はきょとんとしたお顔でわたくしを見ます。そのお顔が、失礼ですが可愛らしくて、わたくしは思わず「ふふふ」と小さく声を上げて笑ってしまいました。貴族の方から見ればはしたないのかもしれませんが、これが飾らないわたくしです。
「だから、ちゃんと教えてください。料理人の方がするようなお料理は、難しいですが……できるかぎりはします」
そうやって、できる範囲で少しずつ歩みよって、お互いがいちばん心地よく暮らせれば、それが幸せというものでしょう。
ルファルド様はしばらくわたくしの顔をじっと見ていましたが、やがてふっと小さく息をつきました。
「……わかった。だが、本当に美味しい。宮廷の料理は、毎日食べるにはくどすぎる。こういう方が、私は良い」
穏やかに微笑んで、ルファルド様はおっしゃいました。再びスプーンを手にして、スープを口に運びます。
「そうですか、良かったです。わたくしもこういう方が好きです」
わたくしもそれにならって、食事をはじめました。薄味なので、野菜の味がしっかり分かるスープは自信作なのです。
誰かが美味しいといって食べてくれるのは、幸せなこと。
わたくしは今、たしかに幸せです。
わたくしが片付けをしてお湯をいただいた頃には、月が東の空を照らしていました。
ルファルド様は書斎でお仕事をしています。宮廷のお仕事は昨日の式もふくめて三日間お休みですが、写本の内職があるのだそうです。お父さまが資金援助をするので、花の卸売以外の副業は半年以内にはおやめになる予定だということですが、この結婚話が急だったのでけりがつかなかったそうです。
わたくしはいただいた私室で肌と髪を整えました。鏡台はとても高価なものですが、ルファルド様の亡くなられたお母さまのものだそうです。それ以外にも、この部屋の家具はみんな古いけれどぴかぴかに磨き上げられた立派なものばかりです。
食器もそうでした。台所には高そうな銀食器や陶磁器のたぐいがごろごろとしていました。今日はできるかぎり安価そうなものを使いましたが、それでもあれは普通の人がおいそれと手にできるような値段ではないはずです。
わたくしにとっては、なかなか気の抜けない状況です。あまり高価なものにばかり囲まれていると、どきどきするのです。
それでも、ここでの生活が嫌だとは、まったく感じませんでした。
ルファルド様は想像以上に良い方ですし、家人の方たちとも何とかやってゆけるような気がします。まだ一日目、何が分かったというわけでもありませんが、わたくしの心は不思議と希望に満ちています。
鏡の中のわたくしも、こころなしか楽しげな顔で髪をとかしていました。きっといつか、このお部屋にも慣れて本当にわたくしの私室になるのでしょう。
寝室へと移動すると、ルファルド様はすでに寝台に横になって本を読んでいらっしゃいました。
「お仕事は終わったのですか？」
「……ああ。予定よりはかなり進んでいる。今日は疲れているし、もう休む」
「はい」
わたくしはくつを脱いで寝台に上がりました。やっぱりこの寝台は王様用だと思います。大きすぎて、わたくしはのそのそとルファルド様のおそばまで行き、布団にもぐりこみました。
ルファルド様の方を向くと、ルファルド様は驚いたようなお顔をしてわたくしを見ています。何かおかしなことでもしたかと首をかしげていると、ルファルド様は小さな声で言いました。
「貴女は……、本当に私を怖がらないのだな」
なかばあきれたようなお声で言われました。ルファルド様を怖がらないのは、そんなにおかしなことでしょうか。よく分からなくて黙っていると、ルファルド様は小さくお笑いになりました。
「昨日から思っていたが、普通はもっと怯える。特に、ここはあまり明るくない」
苦笑しながら、ルファルド様はぎこちない仕草でわたくしの額に手をおきました。
言われてみれば確かに、こけた頬や目元に暗く長い影が差して、燭台の灯りで見るルファルド様のお顔は日の元で見るよりはわずかばかり怖いかもしれません。いかにも死神とか、地獄の王とか、そんな雰囲気なのです。
けれどわたくしは、少なくともわたくしの額におかれたその手の優しさを知っています。
「ルファルド様のお顔は少し怖いと思いますが、ルファルド様は怖くありません」
だからわたくしがそう答えると、ルファルド様はしばらくわたくしを見ていましたが、やがてぽつりと「そうか」とおっしゃいました。
ルファルド様は本を置き、燭台の灯りを消すと、布団にもぐりこんで息をつきました。そのまま、辺りは静かになります。
わたくしも目を閉じて眠ろうとすると、さっきのルファルド様の言葉が脳裏をよぎりました。
あんなことをおっしゃるなんて、ルファルド様は二年前のことを覚えていないのかもしれません。助けていただいた方を、どうしてそんなに怖がりましょう。
ルファルド様はいちどお会いすれば忘れる方が難しいと思いますが、わたくしはどちらかといえば目立たない、どこにでもいるような容姿です。髪の色は、この国では珍しい方に入るかもしれませんが、ほとんどいないというわけでもありませんし、覚えていない方が自然なのでしょう。
それにしたって、わたくしにあんなことを言うほど、ルファルド様は人から怖がられているのでしょうか。確かに怖いお顔だとは思いますが、それは綺麗なお顔立ちのせいもありますし、お父さまも慣れれば優しげに見えなくもないと言っていました。実際、切れ長の目は鋭いですが、まなざしは優しいと思います。多くの人はびっくりするでしょうが、気づく人もいるはずでしょうに、おかしなことです。
そんなことをつらつらと考えていたときでした。
「メイサ」
不意に名前を呼ばれて、わたくしの思考は中断しました。「はい」と答えると、さわさわとルファルド様が身じろぎをする音が聞こえます。
ルファルド様がいる方に顔を向けると、暗闇の中、わたくしに顔を向けているルファルド様がかすかに見えました。
その大きな手が、そっとわたくしの頭に添えられます。
「ありがとう」
ルファルド様は、それだけぽつりと言われました。何のことか分からなくて答えに窮していると、その手がわたくしの髪をかきあげるように撫でました。またさわさわと音がして、あらわになった額に柔らかなものが触れます。……口づけられたようです。
何が何だか、さっぱり分かりません。
けれど。
「おやすみ」
わたくしの隣に横になったルファルド様は、満足げなお声でそう言われたので。
「……おやすみなさい」
わたくしはそれに応えるように、どきどきする心臓を抑えて、できるだけ穏やかな声であいさつをしました。
すぐそばには、ルファルド様の気配。
何だか良い夢が見られそうな気がして、口元に浮かぶ笑みを抑えられないまま、わたくしは目を閉じました。