永遠はミモザの香り・新たな日常1

 目が覚めるとあたりはまだ暗く、部屋は冷たく静まりかえっていました。
 わたくしは、まだうとうととまどろみながら、遠くに王宮の鐘の音を聞きました。――起きる時間です。
 隣でぐっすりと眠っているルファルド様を起こさないように、わたくしは寝台からすべり降りました。

 結婚してほぼ一月。季節は晩夏から初秋へと移り変わり、朝は肌寒く感じるほどになりました。
 顔を洗い、私室で身じまいをしたわたくしは、朝食のしたくにとりかかりました。ふたり分ですから、それほど時間はかかりません。あとはお皿に取りわけるだけにして寝室へと向かうと、ルファルド様はまだ深く眠っていらっしゃいます。
「ルファルド様、朝です。起きてください」
「ん……」
 少し揺さぶりながら起こすと、それでもルファルド様はすぐにお目覚めになりました。
「おはようございます」
「……おはよう」
 わたくしが声をかけると、ルファルド様はもごもごと小さく答えます。まだ眠そうにまばたきをくりかえして、あくびをひとつ。それからすばやく起き上ると、ルファルド様はそのままふらふらと寝室を出てゆきました。わたくしは枕カバーとシーツをはがして、その後を追いました。

 王宮は夜明けと共にはじまります。ですから、本当ならば空がうっすらと明るくなってから起きれば良いのですが、ルファルド様には朝の水まきがあるのです。それから軽く湯を浴びて、朝食と身じたくをすませると、日が昇らないうちに王宮へと向かわれます。
「いってらっしゃいませ」
 わたくしは背のびをして、腰を折ったルファルド様の頬に口づけて言いました。
 ルファルド様は長く、本当におひとりで暮らしていらしたので、結婚して初めて登庁なさった日にはものすごく驚かれました。わたくしの家ではこれが普通だったのですが、一月経った今もまだなかなか慣れないらしく、いつも少し目を泳がせていらっしゃいます。それでも、背の高いルファルド様は、こうしてかがんで下さるようになったので、たぶん嫌ではないのだと思います。嫌でないなら、これは無事を祈るおまじないみたいなものですから、わたくしはした方が落ち着くのです。
「行ってくる」
 制服を身にまとい、しっかりと髪をなでつけてお仕事仕様になったルファルド様は、ぎこちない仕草でわたくしの頬に同じように口づけると、そう言って屋敷を後にしました。わたくしはそれを見送ってから、台所へと向かいました。朝食の片づけをするのです。

 結婚して一カ月。
 わたくしはこちらの生活にだいぶ慣れましたが、ルファルド様はまだわたくしがいることに、なかなか慣れないご様子です。出かけのあいさつのように、わたくしに触れるときはいつもぎしぎしと音がしそうなほどぎこちないですし、わたくしに対してとても、とても、とても気をつかってくださっているのです。
 口数が少ない方ですからそれと分かるようにはあまりおっしゃいませんが、わたくしがコルヒドレ家の資料を読みながらちょっとうとうとしているとすぐ「もう休んだ方がいい」とおっしゃいますし、このあいだは練習中に失敗したしぶいお茶もぜんぶ飲んでしまわれました。「綺麗ですね」と思わず言った花屋さんにおろす用のお花を一輪、テーブルにかざってくださったこともあります。初日にいたらないところは教えてくださいと申し上げたにも関わらず、わたくしがすることに対しては一切口をはさもうとなさいませんし、よく「ありがとう」と口になさいます。
 わたくしのことを大切にしようとしてくださっているのは分かりますし、嬉しいのですが、あんまりにも気をつかってくださるので、なんだか申し訳がないのです。

 六日ぶりに手伝いに来てくれたサリーさんと、普段は掃除しない広間の掃除をしながら思わずそんな話をすると、サリーさんは「まぁ」と小さくつぶやいて、それからころころと笑いました。
「旦那様は見た目に似合わず、気配りの権化のようなところがおありですからねぇ」
 彼女はそう言って苦笑します。「そうなのですか?」と話をうながすと、サリーさんはうなずきました。
「ええ。お小さい頃から利発でしっかりなさった方でしたから、わがままを言って周囲を困らせるようなこともありませんでしたが、父君を亡くされてからはまた急に大人びてしまわれて。屋敷に残った私たちには、それこそ居心地が悪くなるほど気を配っておいででした」
「ですから、奥様のお気持ちは分かりますよ」と、サリーさんは言いました。わたくしはまだ「妻」という建前上は対等な立場ですが、家人の方々から見ればルファルド様は「元雇用主」です。それも、わざわざ残られたのはコルヒドレ家に長くお仕えしてきたプライドを持った方々でしょうから、それは今のわたくし以上に居心地が悪かったことでしょう。サリーさんは続けました。
「けれど、旦那様は別段、気をつかっているという自覚はないようなのです。お優しい方ですから、それがあの方の普通なのでしょうね。人間、自覚があればどうにでもなりますが自覚がなくては申し上げても理解していただけません。ですから、私は居心地が悪いと思うよりは、ありがたくご厚意を受け取って、その分をお返ししようと思ってお仕えしております」
 確かに、「そんなに気をつかわないでください」とお願いしても、ルファルド様は「わかった」と言うばかりでした。なるほど自覚がなかったのかと、わたくしはようやく納得しました。自覚がないのでは、いくら言っても分かるはずがありません。
「そうですね。わたくしも、そう思うようにしましょう」
 わたくしがひとりうなずいていると、サリーさんは「それがよろしいかと」と相槌を打ちました。
 わたくしとサリーさんは顔を見合わせ、同時に吹き出しました。こんな幸せな悩み相談をしているなんて、と何だかおかしくなったのです。
「そうと決めたら、一層お掃除をがんばらなくてはなりませんね」
「はい、奥様」
 わたくしはサリーさんとうなずき合って、広間を磨きあげる手に力をこめました。

 サリーさんはだいたい、五・六日に一度、手伝いに来てくれます。寝室や居間、台所といったいつも使う場所はわたくしが毎日ローテーションを組んで掃除をしているのですが、サリーさんが来たときはそれ以外の場所を少しずつ一緒に掃除するのです。
 広間の掃除を終えたわたくしたちは、わたくしの練習がてらお茶を淹れて一服してから(ルファルド様が、わたくしが淹れたしぶいお茶を飲んでしまわれないように、最近ではご不在のときに練習するのです)、今度は地下倉庫の掃除に取りかかりました。
 婚礼の直前にわたくしのお父さまが大量に人を雇って屋敷中一斉大掃除をしてもらったので、いつも使わない倉庫はまだそれほど汚れていませんが、汚れをためないことが重要なのです。

 ほこりを落とすのにはたきをかけていた時でした。
「あら……?」
 何かにかけてあった布がずれたので、直そうとしたわたくしは思わず手を止めました。どうかなさいましたか、とサリーさんがわたくしの手元をのぞきます。
 わたくしが手にしていたのは、一枚の絵でした。そのあたりは絵を置いてある場所だったらしく、わたくしの足元には大小さまざまな額があります。その、いちばん上にあった絵。
「これは……ルファルド様、のお父さまですか?」
 わたくしはサリーさんに聞きました。サリーさんはそれを見て、「ああ……」と小さく何かつぶやきます。
 わたくしの手の中にあるのは、一枚の肖像画でした。暗い青色を背景に、ひとりの男性が笑っています。真っ黒なくせのある髪と灰色の瞳。ルファルド様とそっくりな、けれどルファルド様より健康的で美しい顔立ちと、快活な表情の青年です。
「そうです。先代の……まだお若い頃ですね」
 案の定、サリーさんはそう答えました。
「よくお分かりになりましたね」
「だって、ルファルド様とそっくりです。でも、ルファルド様じゃありません」
 ルファルド様はこんな笑い方はしません。もっと穏やかな笑い方をなさいます。顔立ちの美しさは絵師が手心を加えたと考えられなくもありませんが、この表情は本物です。
 わたくしの答えに、サリーさんはわたくしをじっと見つめました。何かおかしなことを言ったのかと首をかしげると、サリーさんはあいまいに笑いました。
「旦那様は、先代によく似ておいでです」
 サリーさんはしゃがみこんで、わたくしの足元にあった絵の山に手をのばしました。何枚かを床に置き、とりだした一枚をわたくしに渡します。
 それは家族の肖像画でした。ルファルド様とよく似たお父さまは、先ほどの絵よりも少しお年を召しています。その隣の椅子には、素朴な亜麻色の髪の優しげな女性。彼女はそのひざに黒髪の小さな男の子を抱いています。さらに隣には、その女性によく似た少年が立っていました。
「先代と、旦那様の母君、この子が旦那様で、隣が兄君です」
 サリーさんは指で追いながらそう言いました。
 わたくしはそれを聞きながら、コルヒドレ家の資料の一ページを思い出していました。
 ルファルド様のお父さまは、コルヒドレ家の当主で侯爵さま。お母さまは先王の異母妹で、ルファルド様の上にひとり、お兄さまがいたそうです。けれど、ルファルド様のお母さまとお兄さまは、ルファルド様が四歳の時にはやり病で亡くなられました。その心痛から病を得たお父さまも十二の年に。
 たった数行で書かれていたことですが、ルファルド様にとってはそんな言葉では言い尽くすことのできないできごとだったでしょう。
 絵の中の人々は、誰もそんな未来なんて知らず、幸せそうに笑っています。

「他の、ルファルド様の絵を見せてもらえますか?」
 資料では分からない、ルファルド様の子どもの頃のことを急に知りたくなって、わたくしは聞きました。絵を見たら、ほんの少しだけでも、何かが分かるような気がしたのです。
 けれど、それは叶いませんでした。
 サリーさんは首を横に振ります。
「それしかないのです」
「一枚も?」
「一枚も」
 わたくしはお母さまの腕に抱かれた、小さな小さなルファルド様を見つめました。三歳くらいでしょうか。ふっくらとした綺麗で可愛らしい男の子がにこにことしています。
 ふつう、コルヒドレ家くらいの家ならば、節目ごとに肖像画を残すものです。貴族の末端なわたくしでも今までに三枚……四枚ほど描いてもらったことがあります。それが残っていないのは、よほどのことです。
「……そうですか」
 こんなに可愛らしい子です。どうして、何があって絵に残されなかったのか。わたくしが知っているのはただの事実で、その奥にあるものは何も知りません。
「残念です」
「本当に」
 サリーさんは知っているのかもしれません。わたくしにあいづちを打って、さみしそうな顔をします。わたくしはもう一度、家族の肖像画に目を落としました。
 わたくしが知らない、無邪気な顔で笑う小さなルファルド様。
 ――ルファルド様の絵がほしい。
 そのお顔を見ていたら、どうしてか無性にそう思いました。
「ルファルド様の絵がほしいです」
 今のルファルド様の絵。五年先、十年先のものも。これからずっと、ずっと、一緒に過ごしてゆく中で、たくさん描いてもらうのです。そして、おじいちゃんとおばあちゃんになったときにふたりで見返すのです
 それはとても素敵な考えに思えました。
 顔を上げると、サリーさんは小さく微笑んで「はい」と答えてくれました。

(C) まの 2009