永遠はミモザの香り・新たな日常2

 倉庫の掃除を終えてサリーさんが帰ったのと、ルファルド様が王宮からお帰りになったのはほとんど同時でした。「門前でサリーに会った」と、ルファルド様はひとりごとのように言いました。
 お日さまはすでにだいぶ傾いて、もう少しすれば夕暮れです。本当ならば王宮は日が天に昇りきったらおしまいなのですが、ルファルド様は本業もお忙しいらしく、いつもこのくらいにならないとお帰りになりません。
 ルファルド様は手早く着替えてつばの大きな帽子をかぶると、休む間もなく庭へと出てゆかれました。これから日が暮れるまでは、庭の手入れをなさるのです。
 わたくしは洗濯ものを取りこみにテラスへと向かいました。

 コルヒドレ邸の庭では今、ちょうどダリアの花が時期を迎えています。花弁の多い、鮮やかで華やかな花が庭の一画で揺れています。
 ルファルド様はその様子を見ながら、売り物にするものを切っていました。わたくしはそれをながめつつ、洗濯ものを取りこみます。大きなシーツを抱きしめるようにすると、ふわりとお日さまの匂いがします。洗濯のなにが好きかといえば、わたくしは取りこむときのその匂いが好きなのです。もう少ししたら毛布の時期ですから、楽しみです。
 ひとりで小さく笑って顔を上げると、ルファルド様が遠目にも楽しそうにしているのが目に入りました。きっと、わたくしが家事が好きなのと同じように、ルファルド様も庭の手入れがお好きなのでしょう。

「子の頃は庭師になりたかった」
 その日の夕食をいただきながら、何気なく「本当に庭がお好きなんですね」と言うと、ルファルド様は目を細くしてそう言いました。
「庭師、ですか」
「ああ……。今も時々、そう思う」
 そう答えたルファルド様は、細くした目でどこか遠くを見ています。
 たしかに、制服を着て髪をなでつけた「宮廷人」としてのルファルド様よりも、着古した作業着に大きなつばの帽子をかぶって庭仕事をしているルファルド様の方が、わたくしもしっくりきます。
 お父さまの話によるとルファルド様はとても優秀な宮廷人なのだそうですが、実際に働いていらっしゃるところを見たことはないので、わたくしにはどうもそのお姿があまり想像できないのです。うまくいえませんが……なんとなく、生真面目で無自覚に人を気づかってしまうルファルド様は、人間関係の複雑そうな王宮のお仕事よりも庭仕事をしている方が性に合うのではないかと思うのです。
 ですから、「庭師になりたかった」というその言葉には、妙に説得力がありました。わたくしは夢を見ているようなそのお顔をながめます。髪をおろして微笑んでいるルファルド様は、やっぱりやつれていらっしゃるのに、雰囲気はどこか少年めいてとてもよいお顔です。
 こういうお顔もお綺麗だなぁと、しみじみながめていると、ルファルド様はふと我に返ったように真顔になって、首を横に振りました。
「愚かなことを言った」
 自嘲でもするように、口元を皮肉そうにゆがめます。わたくしは口をとがらせました。
「そんなことはありません」
 せっかくよいお顔をされていたのに、と一瞬すねた気持ちになりました。けれど、それはわたくしの都合です。そうではなくて、わたくしはルファルド様に確認しておいていただきたいことがありました。
「愚かだなんて、思いませんわ」
 権門に生まれて、庭師になりたいだなんて、と。貴族の方は眉をひそめるかもしれません。わたくしも身に覚えがあります。自分の好きなことを否定されるのは、ひどくさみしいことでした。
 だからせめて、そうは思わない人間がいるのだと、そういう価値観がすべてではないのだと思っていてほしいのです。
 ルファルド様はしばらくわたくしを見つめていらっしゃいましたが、うつむいて小さく「……ああ」とあいづちを打たれました。その表情はよく見えなくなってしまったので、わたくしにはルファルド様がどう思われたのか、よく分かりません。

 それからしばらく、おたがいに無言でパンとスープを口に運びました。もともと、ルファルド様は口数の多い方ではありません。わたくしも自分が話すよりは聞いている方が好きなので、珍しいことでもありませんでした。
 もくもくと食事をして、半分以上をたいらげたころです。
「貴女は……何か、あったのか」
 唐突に、ルファルド様がそう言いました。
「何か、と申しますと……?」
 わたくしは何のことなのか分からず、とまどいながらそう答えました。
 わたくしは頭の回転があまり早くはないのです。我ながら、こういうときは情けない気分になりますが、こればかりは致し方ありません。
 ルファルド様はそんなわたくしにいら立つご様子もなく、じっとわたくしを見つめながら言いました。
「子の頃、何かなりたかったものがあったのか?」
 わたくしはその言葉に、目をしばたかせました。
 どうやら、先ほどのお話の続きのようです。わたくしは首をかしげました。なりたかったものは、いろいろとあります。けれど、いちばん。今にまでつながるほど、いちばんなりたかったもの。それは。
「お針子、でしょうか」
 わたくしはそう答えました。今度はルファルド様が首をかしげます。
「……縫い物が好きなのか?」
 無理もありません。わたくしはこの家に来てから、まだ針を持ったことがありません。けれど、実家にいたときには、針を持たぬ日の方が少なかったと思います。
「ええ。実家にいたころは、自分や父のものもすべて仕立てていました。いま着ているこれも、持って来た服はみな自分で縫ったのです」
 わたくしは家事をするのに動きやすいように、普段はシンプルなくるぶし丈のワンピースを着ています。普段着用のワンピースが五着、夜会用のドレスと、昼用のドレスが三着ずつ、合計十一着がわたくしの嫁入り道具です。寝衣や下着、エプロンを入れれば軽く三十着以上はありますが、それらもすべてわたくしの手づくりなのです。
 ルファルド様はわたくしの服をご覧になって、目を丸くしました。
「十分、針子の仕事ではないか」
「はい。これだけは自信があるのです」
 えっへんと少し胸を張ります。わたくしは、家事は好きですが、お料理や洗濯ものは玄人の方にはおよびません。けれど縫いものにだけは、妙に自信があるのです。
 ルファルド様は小さく笑いました。わたくしもなんだかおかしくなって、つられて笑いました。名門・コルヒドレ家の新婚夫婦が、庭師とお針子になりたかっただなんて、一体、誰が想像するでしょう。常識からは思いきり軌道をはずれてどこかに行ってしまった感がありますが、それをこんな風に話せることが、わたくしはうれしくてなりません。

 今日も楽しい一日だったと思いながら、夕食の後片付けをしていたときです。
 ふと、よいことを思いつきました。

「ルファルド様」
 食事の後、めずらしく居間の長椅子でくつろいでいらしたルファルド様を見つけて声をかけると、ルファルド様は読んでいらした本から顔をあげました。
「どうした」
 わたくしが隣に座ると、ルファルド様はしおりをはさんで本を閉じ、わたくしに向き直ってくださいます。わたくしは自分の思いつきに少しどきどきしながらルファルド様を見上げました。
「お願いがあるのです」
「お願い?」
 ルファルド様は首をかしげると、「なんだろう」とつぶやくようにおっしゃって、わたくしの話をうながします。わたくしは意を決してその思いつきを口にしました。
「お針子の働き口を、探しても良いでしょうか」
「……」
 ルファルド様はわずかに目をみはります。わたくしはじっとその優しげな灰色の瞳を見つめました。

 コルヒドレ家の借金は、財産のほとんどを処分したうえでルファルド様が一生をかけて宮廷人として働き、副業を三つ四つ抱えてようやく返せるものでした。
 わたくしと結婚した今は、ルファルド様が王宮に普通にお勤めすれば返せる程度まで、お父さまが資金援助をしてくださっています。生活は、貴族としてはありえないほど貧乏ですが、庶民の生活を知っているわたくしからすればそれほど苦しくはありません。ぜいたくをせず、日々つつましく暮らしてゆけば、衣食住は足りています。
 けれど、このままではいつまで経っても、ルファルド様の絵を描いてもらうことはできないのです。
 絵というのはぜいたく品です。小さなものを一枚、描いていただくにも一月の生活費分くらいはします。お父さまにお願いすれば喜んでお金を出してくれそうですが、わたくしは、それだけは嫌でした。資金援助の件はお父さまとルファルド様がお決めになったことですが、それ以上のお金を出していただくのは、ルファルド様の「妻」としていけないことだと思うのです。
 ルファルド様の絵はほしいけれど、どうすればよいかしら、と思っていたのですが意外と単純なことでした。わたくしが働けば良いのです。
 働いたことはありませんから、うまくいくかは分かりませんが、とりあえずやってみなければ何もはじまりません。

 わたくしのお願いに、ルファルド様は困ったようなお顔をして何事か考えていらっしゃるようでした。
 たぶん、ルファルド様はわたくしが働くことには、反対なのだと思います。
 頻繁に「ありがとう」と口にするほど、わたくしが家事をしていることに罪悪感をお持ちの方です。さらにこの上、なんてことをお考えになりそうです。
 けれど、わたくしは先ほど「お針子になりたかった」と申しあげました。ルファルド様ならば、分かってくださるかもしれない。それでもやっぱり、だめだとおっしゃるかもしれない。
 何とおっしゃるだろうと期待半分、不安半分で見上げていると、ルファルド様はやがて小さく息をついて言いました。
「ラサルガに言っておこう」
「?」
 よく分からなくてそのままぽかんとしていると、ルファルド様は表情をやわらげてわたくしの手にそっとその大きな手を重ねました。
「あれなら良い働き口を探してくれるだろう」
 それは、つまり、ラサルガさんにわたくしが働くところを探してくれるように頼んでくださるということでしょうか。
「ありがとうございます!」
 分かってくださったことが嬉しくて思わず大きな声でお礼を言うと、ルファルド様はふわりと笑いました。わたくしは、この方の性格の優しさがにじみ出るようなこの笑い方がいちばん綺麗だと思います。これは是が非でも絵に残していただかねば、と考えていると、ルファルド様はふと真面目なお顔をされました。
「ただし、くれぐれも無理はしないように」
 やっぱり、心配はされているようです。その大きな手がなにかを案じるようにそっとわたくしの手を包み込みます。
 その不安を吹き飛ばすように「はい!」と元気よくお答えすると、ルファルド様はもういちど優しく笑いました。

(C) まの 2009