永遠はミモザの香り・新たな日常3

 それから数日後、ルファルド様はラサルガさんに話をしてくださり、それからまた少ししてラサルガさんが仕立て屋さんの働き口を探してきてくれました。とはいえ、しばらくは試用期間ですから、お給金は最低限です。ルファルド様の絵まではまだまだ遠いなぁと思いつつ、居間で久々の針仕事にいそしんでいたときでした。
 ぴしゃぴしゃと、窓をたたく音がしました。
 日中、たいていお屋敷にはわたくしひとりですから、玄関には鍵がかかっています。わたくしは居間にいることが多いので、鍵を持っているルファルド様以外はこちらにまわるのです。
 けれど今日はサリーさんやラサルガさんが来る日ではありません。ハイルさんはだいたいルファルド様がいらっしゃるときにしか来ないので、今日はひとりきりでいる心づもりだったのです。
 驚いて顔を上げ、音のした窓の方へ恐るおそる近づきました。わざわざ窓をたたいているので、この家のことを知っている人――きっと急用でもできたサリーさんかラサルガさんだとは思いますが、それでも屋敷の中にはわたくし一人きりですからなんとなく不安になるのです。
 そろそろと近づき、ようやくその人影を見つけたわたくしは、思わず声を上げました。
「お父さま!」
 天井まで届く大きな窓の向こう側。よそ行きの格好をしたお父さまが、わたくしを見つけて手を振ります。
「連絡もなしにどうなさったのですか」
 窓を開けつつ声をかけると、お父さまは「なに、ちょっと思い立ってな」と言って屋敷にあがりました。
「土産だ」
「おみやげ?」
 渡されたずっしりと重い麻袋をのぞきこむと、淡い茶色の粉が入っています。
「まぁ、お砂糖! ありがとうございます」
 お砂糖はとても高価なものです。実家にいたころはお菓子などもよくつくったのですが、今は買うことができないので結婚してからつくっていません。
 これだけあれば、いろいろなものがつくれるでしょう。あれもこれもとつくりたいものが頭に浮かびます。
「おや、縫い物をしていたのか」
「え、あ、はい」
 少し浮かれて、うっかりお父さまのことを失念するところでした。お父さまはわたくしが先ほどまで座っていた長椅子に腰かけ、帽子を脱ぎます。わたくしはそれを受け取ってハンガーにかけ、お父さまのななめ隣に腰掛けました。散らばっていた裁縫道具を簡単にまとめて、お砂糖をテーブルにそっと置きます。
「お前が刺繍をするなんて、珍しい」
 お父さまはわたくしが縫いかけのまま置いてあったハンカチを手にとると、つぶやくようにそう言いました。
 仕立て屋さんから、力量を見るためにと、シンプルなシャツとハンカチの刺繍をそれぞれ五枚ずつ課せられているのです。わたくしはお針子として働くことになったいきさつをお父さまに話しました。
「そうか。しかし、それならばもう少し手を抜けば良いものを」
「どうしてです?」
「こんなに丁寧にやったのでは、これからも刺繍の仕事が入るぞ。お前、縫いものは好きでも刺繍は嫌いだろう」
「好きではありませんけど、お仕事なのですから当然ではありませんか。手を抜けだなんて、悪いお父さまですね」
 わたくしはお父さまの手から縫いかけのハンカチを取り上げました。針を手にして、刺繍を再開します。お父さまに指摘された通り、刺繍はあまり好きではないので早く終わらせてしまいたいのです。
 ちくちくと針をすすめていると、その様子を見ているらしいお父さまが言いました。
「そうまでしてルファルド様の絵がほしいのか」
「ええ。お父さまが結婚前にルファルド様の姿絵をご用意してくださいませんでしたから」
「……まだ根に持っているのか」
「あたりまえです」
「し、仕方ないではないか。サルティだってそれが良いと言ったのだからっ」
「人のせいにしないでください」
「……」
 サルティというのは、わたくしの後見人のメサルティム・ラドファイル卿のことです。とても偉い方なのですが、お父さまとはなぜか王立学院以来の大親友で、わたくしの縁談にも一枚かんでいるのです。サルティおじさまにまで罪をかぶせるなんて、困ったお父さまです。
 わたくしが黙って刺繍を続けていると、ななめ前から無言のプレッシャーを感じました。かまってほしそうにしているお父さまの姿が、見ずとも容易に予想できます。ちらりと横目でそちらを見ると、案の定、しょんぼりとしたお父さまが様子をうかがうようにちらちらとこちらを見ています。……まったく、本当に手のかかるお父さまです。
「それで、今日はどうなさったのです」
「あ、ああ! いや、どうしているかと気になってな! 元気そうで安心した」
 わたくしから声をかけると、お父さまは露骨に嬉しそうなお顔をして話します。
「わたくしは元気です。お父さまもお元気そうですね」
「ああ、いたって元気だ」
「元気がすぎてお食事をたくさん召し上がってはいないでしょうね?」
「いや、ははっ、そんなにたくさんではないぞ」
「……後でリムに手紙を書いておきます」
 お父さまは放っておくと食事を取りすぎてしまうのです。わたくしが結婚してまだ一月ちょっとですが、あごのあたりにうっすらと肉がついたような気もします。これは、雇い主であろうと容赦なく叱れる侍女のリムに頼んでおくしかありません。お父さまは「そんな殺生なっ」とか何とかおっしゃいますが、自制できないご自分が悪いのですから知りません。わたくしは小さくため息をつきました。
 こんな調子で、領地におひとりで大丈夫なのでしょうか。リムをはじめ、気心の知れた家人がいますから生活の心配はしていませんが、娘としてはやはり不安にもなります。
 お父さまはこれで意外と寂しがりなのです。
「わたくしを心配する前に、ご自分の心配をなさってくださいね? もう若くはないのですから」
 手を止めて見据えて言うと、お父さまは笑います。
「なぁに、父はまだまだ若いぞ」
 目元のしわや白いものが目立つおぐしは年相応ですが、にっこりとして胸をはるお父さまは確かに若く……というよりも子どもっぽく見えました。いつものお父さまです。
 わたくしは少し声をあげて笑いました。
「ご自分でそうおっしゃるのが年の証拠です」
「……」
 黙りこんだお父さまを尻目に、針仕事を再開します。こんなやりとりをするのもひさしぶりのこと。なつかしい気分で針を運んでいると、お父さまは「相変わらず手厳しいことだ」とひとりごちてまた笑いました。

 お父さまと話しながらハンカチの刺繍のノルマ五枚のうち、二枚目を完成させた頃、ルファルド様がお帰りになりました。
 突然いらしたお父さまの姿に、ルファルド様も目を丸くされます。
「お手紙のひとつもくだされば良いのに」
「良いではないか。貴女の父君なのだ」
 ルファルド様が脱いだ上着を受け取って、思わずぐちをこぼしたわたくしに、ルファルド様はそう言ってくださいます。その言葉に、すかさずお父さまがのりました。
「ルファルド様もこうおっしゃっているぞ」
「もう! 調子に乗らないでください! ルファルド様も、お父さまを甘やかしてはいけません」
 わたくしがにらむと、ルファルド様がいるせいか、余裕しゃくしゃくのお父さまは肩をすくめて笑います。
「おお怖い。娘はこちらでも、いつもこうですかな?」
「いいえ、いつもは声を荒げることなどありません」
 ルファルド様は、困ったようなおかしいような、微妙な表情でそうお答えになります。
「当然です。お父さまと違ってルファルド様はとってもよい方ですから、わたくし、怒る必要なんてありませんわ」
 お父さまをにらみつけたままそう言うと、お父さまはからからと声をあげて笑いました。ずいぶんご機嫌です。
「そうかそうか。それでは父は、このあたりで退散しよう」
「泊ってゆかれるのではないのですか?」
 かけてあった帽子を手にしたお父さまに、そう聞いたのはルファルド様です。今から王都を出るのでは、領地に帰るまでに結局どこかで泊らなくてはなりません。わたくしも意外に思って首をかしげると、お父さまは帽子をかぶってお顔まですっかりよそ行きのお顔になって答えました。
「いやいや、これでもなかなか多忙でね。まだこれから用事があるのだ」
 わたくしとのんびりお話をしていて多忙も何もないと思うのですが、何かご用があるのは本当なのでしょう。
 玄関までお見送りに出たわたくしは、お別れのあいさつをして言いました。
「今度いらっしゃるときは、ちゃんと連絡してくださいね?」
「分かった分かった」
 お父さまは苦笑します。
「それではな」
 けれどそれも一瞬のこと。すっかりご機嫌な様子で、お父さまは屋敷を後にされました。

 その日の夕方、食事の準備と一緒におみやげにいただいたお砂糖を使って、さっそく簡単な焼き菓子を作っていると、台所にルファルド様がひょっこりと姿をあらわしました。
「……甘い匂いがする」
 庭仕事を終えられたばかりらしく、作業着のまま帽子だけ脱いだルファルド様は、その匂いにつられるようにオーブンの前に立ちます。わたくしはその隣に立ち、ルファルド様を見上げました。
 ご不快、というわけではないようです。むしろ、目を閉じてその匂いに集中しているようです。
「お父さまからおみやげにお砂糖をいただいたので、焼き菓子を作っているのです」
 ちょうど焼き上がる頃だったのでオーブンをのぞくと、小さな丸い生地がぷっくりとふくらんでいます。できあがりです。
 オーブンから取り出すと、ルファルド様はじっとその焼き菓子をご覧になりました。
「……召し上がりますか?」
 あんまりじっとご覧になっているのでためしにそう聞くと、ルファルド様は小さな子どものように目を輝かせました。
「いいのか?」
「ええ、どうぞ。熱いのでお気をつけて」
 わたくしが答えるのが早いか、焼きたての菓子をひとつ、ひょいと口に入れます。案の定、ルファルド様は熱そうにはふはふと口を動かしました。お砂糖と卵と小麦粉だけの本当に簡単なお菓子なので、バターをふんだんに使うようなお菓子に比べてかた目なのです。ルファルド様は少し苦労しながらかみ砕いていらっしゃいました。
「……熱い」
「だから言いましたのに」
 わたくしが苦笑すると、熱さに涙目になったルファルド様はそれでもふたつめに手をのばし、今度は慎重に冷ましながら口になさいます。焼き菓子をほおばるそのお顔は、お庭の手入れをするときと同じように幸せそうです。
「甘いもの、お好きなのですか?」
 わたくしが聞くと、ルファルド様はうなずきました。
「ああ。顔に似合わぬと笑われる」
 みっつめに手をのばします。本当に、甘いものがお好きなようです。
 意外でした。ルファルド様はやせていらっしゃいますし、偏見ですけれどお顔からして甘いものが好きそうには見えません。

 放っておくとすべてたいらげてしまいそうなルファルド様を見て、わたくしは残りの焼き菓子をお皿にうつしました。
「後はお食事の後になさってください。お腹がいっぱいになってしまいます」
 わたくしの言葉に、ルファルド様はうらめしそうなお顔をなさいます。その表情が、ちょっとだけお父さまと似ていました。
「だめです」
 お父さまに似ているものだから、思わず少し強めに言うと、ルファルド様はしょんぼりなさいます。……お父さまと違って、ちょっと可愛いです。くんくんと鳴く子犬の幻影が見えます。
「……あと一枚だけですよ?」
 その可愛らしさに負けて、抱え込んだお皿を差し出すと、ルファルド様はぱっと表情を明るくなさいました。
「分かった」
 ちゃんと一枚だけとって、大事そうに口に運びます。
 やっぱり可愛いです。これがお父さまだと、お皿ごと持ってゆかれてしまいます。
「食べ終わったら、お湯をあびていらっしゃいませ。早めにお食事にしましょう」
「ああ」
 ルファルド様を湯殿へ向かわせて、わたくしは急いで夕食の支度にとりかかりました。
 この分では、きっとルファルド様も急いで出ていらっしゃるでしょう。その前に支度を済ませなくてはなりません。

 案の定、手早くお湯を済ませていらしたルファルド様は、夕食も心もち勢いよく召しあがりました。お皿に取った焼き菓子を一緒に食卓に置いておいたのがいけなかったのかもしれません。それでも、わたくしが夕飯を食べ終えてティーポットを用意してくるまで、そわそわしながら待っていらっしゃるのが、何ともいじらしくて可愛らしいのです。きっと、あの絵に描かれた頃のルファルド様は、こんな感じの素直で可愛らしい子だったのでしょう。
 わたくしはお茶を淹れようと温めてきたティーポットに手を伸ばしました。サリーさんに特訓してもらっているので、最近は慎重に、慎重に淹れれば普通よりちょっとまずいくらいになりました。ルファルド様に飲ませるのはまだまだ気がひけますが、甘いものにはお茶がなくてははじまりません。
「……私が淹れようか」
 乾燥させたハーブをスプーンにとって、その量を見ていると、ルファルド様が言いました。
「すごい顔をしている」
「え」
 ルファルド様が苦笑して、顔を上げたわたくしの眉間にぎこちなく中指をおきます。
 ……どうやら思いきり眉根をよせていたようです。我に返って眉間を押さえます。はずかしいです。前髪をひっぱって顔を隠すようにすると、ルファルド様は笑ってわたくしの手からスプーンを取りました。
「菓子の礼だ」
 そう言うと、ルファルド様は慣れた様子でお茶を淹れはじめました。きっと、サリーさんに習ったのでしょう。わたくしも習ったとおりの手順で、流れるように淹れてゆきます。
 そういえば、お父さまもルファルド様のことを「ご自分でお茶も淹れられる素敵な紳士」だとおっしゃっていました。わたくしの手つきがあまりにもあぶなっかしいので、もどかしくなられたのでしょう。
 ルファルド様にお茶を淹れていただくなんて、と一瞬思いましたが、ここはサリーさんにならってありがたくいただいて、その分どこかでお返しすることにしましょう。そのためにも、ルファルド様のお茶の淹れ方をよく見て勉強しておいた方が良いのです。
 サリーさんはいつもわたくしに見せるためにゆっくり淹れてくれますが、ルファルド様はそういう意図で淹れているわけではないので本当に流れるような自然な動作です。わたくしはまだまだ手順をしっかり覚えることが先になってしまってこんな風には淹れられませんが、こういうイメージを覚えるのは悪くない気がします。
 じっと見ているとあっという間です。やがてカップに注がれたお茶は、綺麗なこがね色をしていました。

「いいにおいです」
 ルファルド様が淹れてくださったお茶のカップを受けとって口元に近づけると、ふんわりといい香りがしました。残念ながら、わたくしが淹れてもこうはなりません。
 ルファルド様は、「どうぞ」とわたくしにお茶をすすめてくださいます。おずおずと口にすると、豊かな香りと苦み、そして微かな甘みがひろがりました。
「おいしい」
 本当においしいです。どこがどうとはうまく言えませんが、サリーさんが淹れてくれたのとはまた違っておいしいです。
 いつかわたくしもこう淹れられるようになりたいなぁと思いつつお茶をいただいていると、わたくしの方をご覧になっていたルファルド様はご自分の分を淹れてふたたび焼き菓子に手をのばしました。
「菓子も美味い」
 ルファルド様はそう言ってくださいます。わたくしもひとつ口に運びました。甘さひかえめの、素朴な味です。
 ルファルド様にお茶を淹れていただいて本当に良かったと思いました。歯ごたえのある焼き菓子とおいしいお茶は、なかなか良い組み合わせになっています。

 そうしてしばらく、わたくしとルファルド様はお茶とお菓子を楽しみました。ふたりでのんびりとお茶会だなんて、なんて優雅でぜいたくなのでしょう。
 会話がとぎれてふと顔を上げると、ルファルド様は幸せそうに焼き菓子をほおばっています。
 お茶のおかげか、青白いお顔に微かに赤みがさして、いつもよりもずっとお綺麗です。
 ルファルド様は、きっとお顔の色をよくしてもっとお太りになったら、とっても美人さんなのだと思います。絵で見たお義父さまも綺麗な方でしたが、ルファルド様の方がより線が細くていらっしゃるので、美丈夫というよりも美人になる気がします。
 それに、美しさうんぬんは置いておいても、せめてもう少しだけでもお太りになった方が、身体には良いと思います。ルファルド様は服を着ていても細くていらっしゃいますが、これでも着太りしているようで、腕などは本当に骨が目立つくらいがりがりなのです。

 甘いものを食べていらっしゃるルファルド様はとっても幸せそうですし、これで少しでも肉がついてくれたら一石二鳥というものでしょう。
 お父さまからいただいたお砂糖は、まだまだあります。今度はなにを作ろうかしら、と思いをめぐらしながら、わたくしはルファルド様が淹れてくださったお茶をまた口に運びました。

(C) まの 2009