俺の幼なじみは「モナリザ」と呼ばれている。小学生の頃、気づいたらそう呼ばれていた。別に複雑な理由なんて全くなくて、似ているから、ということらしい。それに加えて、名前が梨佐(りさ)だったから、誰が言い出したのか知らないがあっという間に定着した。
高校に進学した今でも、同じ中学だったヤツらがそう呼んでいたのがいつの間にか広まって、梨佐本人を知らない人間はそう呼んでいるらしい。
「ほら、あの子がモナリザ」
校内で梨佐と歩いていると、時々、そんな声が聞こえてくる。
「うわ、マジ美人」
「ね、すっごい整ってるでしょ?」
昼休み、梨佐と並んで歩いていると、今日もどこからかそんな女子の声がした。
確かに梨佐ははっきりとした整った顔立ちをしている。くっきりとした大きな二重の目。すっと通った鼻筋に、やわらかそうな唇は桜色。それがほぼ左右対称なのだ。本物のモナリザは左右で違う顔をしているらしいが、梨佐を「モナリザ」と呼ぶ連中に、そんなことは関係ない。髪も、黒いけれど梨佐はストレート。モナリザはくせ毛だった。
ちらりと横目で見ると、羨望のまなざしを一身に集める梨佐は涼しい顔で前を向いている。
俺はあえて人目を気にしないのだが、梨佐はあまり人目に気づかない。俺はこの頃、そのことをしみじみありがたいと思っている。
梨佐を称賛する声の後には、決まってこう続くからだ。
「なんであんなのと歩いてるの?」
俺は客観的に見て、チビでデブのブサイクだ。
自虐的だが、事実なのだから仕方がない。隣を歩く梨佐と比べると、それが際立つ。
梨佐は女にしては背が高い方で、すらりとしている。小柄な俺は梨佐よりも少し、背が低い。それでいて体重は倍、下手をしたらそれ以上なんじゃないだろうか。
顔もまずい。鼻はまぁ、悪くないのだが、俺の顔でまともなのはそれだけだ。目は一重で細いし、唇は厚すぎる。とどめに脂ぎったニキビ面。女子からは生理的に嫌悪されることが多い。
いったい、誰が信じるだろう。この俺が、梨佐の恋人だなんて。
この高校に入って半年。付き合い出してからもほぼ半年。
別に隠す必要もないし隠してもいない。同じクラスなのもあって、登下校や昼休みはもちろん、梨佐は大抵、俺と一緒にいる。それなのに、誰も信じていない。
梨佐のことが好きだとかいう男に梨佐の好みを聞かれたことすらある。「俺、一応、梨佐と付き合ってるんだけど」と言ったら爆笑された。幼なじみなのは小中が同じだったヤツらが知っているから、認識はされているようだが……どうやら俺は梨佐の奇妙な付属品だと思われているらしい。
別に、誰かに信じてもらうために付き合ってるわけじゃないから構わないのだが、さすがに少し、黄昏れたくなることもある。
人気のない中庭で梨佐が作った弁当を食って、少しだけだらだらとして教室に戻る。それがいつもの、俺と梨佐の昼休みだ。
飯を食い終わって俺が本を広げていると、梨佐が口を開いた。
「礼(れい)ちゃん」
梨佐は俺をそう呼ぶ。そんなツラではないのだが、本名をストレートに呼ばれるよりはだいぶマシだ。俺が嫌がることを分かっているから、梨佐は昔から俺を本名では呼ばない。梨佐以外のヤツは大抵、名字で「鈴江」と呼ぶ。
俺が顔を向けると、梨佐は上目づかいで俺を見た。俺に何か頼みごとをするときのクセだ。案の定、梨佐は言った。
「あのね、今日、礼ちゃんのお家に行ってもいい?」
「は? 部活は?」
梨佐は合唱部に入っている。歌は下手だが、好きらしい。平日はほとんど毎日放課後に練習があるが、土日は大会の前くらいだ。強豪校とかではないからそれほど厳しくはない。わきあいあいとした雰囲気らしい。
ちなみに俺は書道部に所属している。活動は週一だから、梨佐とは帰りの時間がまるで合わない。さっさと帰りたいところだが、他の用がない時は梨佐が終わるのを待っているから、結局は部室で練習していることが多い。
梨佐の部活が終わってから家に帰ると、けっこう遅くなる。近所だから、それから家に来ても別に平気なのだが、梨佐んちのおじさんが怒るので、梨佐は夜、俺の家には来ない。
梨佐は俺を見つめたまま言った。
「今日はお休み。せんせいが出張なんだって」
「ふぅん。で? また何か分からなかったのかよ?」
「うん。数学のプリント、全然わかんない」
困ったような顔をして、かくんと首をかしげる。
梨佐はかなり無理をしてこの高校に進学した。受験前には周囲に反対されまくり、受かって奇跡だと言われたくらいだ。当然のように、テストは毎回ボーダーラインの周辺を行ったり来たりしている。「仕方ねぇなぁ」と言うと、梨佐はその綺麗な顔立ちには似合わない、へらへらっと力が抜けるような間抜けそうな顔で笑った。
「えへへ、ありがと。礼ちゃん大好き!」
梨佐は俺の腕をとり、ぶ厚い脂肪に覆われた肩に顔をうずめた。うふふとくぐもった声で、何やら能天気そうに笑っている。
さっぱり理解できないが、梨佐は本当に俺のことが好きらしい。前から妙に懐かれているとは思っていたが、告白された時はマジでびびった。
しかも、付き合い出してからはこうして、やたらべたべたくっつきたがるようになった。涼しくなってきたとはいえ、今日なんかはこうしてくっつかれると、俺のようなデブにはまだかなり暑い。
「……暑苦しい」
思わずはがそうとすると、梨佐はひしと俺の腕を抱きしめた。
「やーっ! 梨佐、礼ちゃんといちゃいちゃするのっ!」
「いちゃいちゃって、おまえな……」
「だってだって、ふたりっきりじゃなきゃ、礼ちゃんいちゃいちゃさせてくんないんだもんっ! お昼休み終わっちゃったらお家までガマンなんだもんっ!」
「……」
当たり前だ。俺は人目を気にしないが、恥という日本文化はこよなく愛している。しかしこいつにはそれが理解できないらしい。散々言って、この頃ようやく俺が嫌がることだけは分かってきたらしく、我を忘れているような状況でなければ人前ではべたべたしなくなった。その代わり、隙あらばこうしてくっつかれるようになったが。
梨佐はそのでかい目に涙をためて俺をにらむようにして見つめてくる。小さな子どものようにバカっぽく頬をふくらませている。絶対離すもんかという意思表示なのだろう、手加減なしで俺の腕を締め上げているから、結構痛い。
俺は目だけで天を仰いで、ため息をついた。
こうなっては絶対に、梨佐は言うことを聞かない。
天真爛漫と言えば聞こえはいいが、トロいし能天気で考えなしな上、自分の感情に忠実でワガママ。見た目に反して子どものようなヤツ、それが梨佐だ。
耐えがたい程のことでなければ、この中身幼児になぜ嫌なのかを理解させるよりも、俺が折れる方がずっと楽。
「あー……はいはい、分かったから泣くなよ」
だから俺はいつもこうして諦めてしまう。何だか梨佐にうまく丸めこまれているような気もするが、本気で泣かれるよりはずっといい。
ため息混じりの俺の言葉に、梨佐はぱっと明るい顔をした。
「うん!」
ごしごしと乱暴に目元をぬぐうと、梨佐はそっと俺の腕を抱きなおした。人の気も知らないで、能天気な顔をしている。
「……楽しそうだな」
思わず嫌味を言うと、梨佐は俺を見つめてへらへらっと笑った。
「うん! 梨佐しあわせー!」
全然、通じていない。
……ああ、疲れる。
幸か不幸か、梨佐の幼稚さは、この高校ではまだあまり知られていない。
人見知りをするのだ。極度と言っていいと思う。梨佐は、俺や家族以外の人間がいるところでは滅多に喋らない。ほとんどの会話を「うん」と「ううん」で済ませ、後はただ微笑んでいる。これでも大分ましになった方だ。小学生くらいの頃は、比喩ではなくて本当に俺の後ろに隠れていた。誰もいなくなって俺が振り向くと、今にも泣きそうな顔をしていた。
そんなだから、梨佐はよけいに幼いのだろう。もう少し俺以外の人間にも慣れてほしいところだが、仕方がない。多少は進歩しているのだから、気長に見守ってやるよりほかにないだろう。無理に他人に慣れさせようとすると、梨佐は泣く。
……まったく、梨佐といるとき、俺の気分は大抵、恋人なんぞではない。「保護者」だ。俺には梨佐を「モナリザ」とか言って崇拝するやつらの気がしれない。
予鈴を合図に教室へと戻り、五・六時間目の授業を受けた。
ホームルームやら掃除やら、その他もろもろを済ませて帰り支度をする。教室にはまだほとんどのクラスメイトが残っていて、ざわついている。
その中で、先に支度を済ませていたらしい梨佐は、机に頬杖をついて足をぶらぶらさせながら待っていた。俺の方が席は後ろなので、その様子がよく見える。
教科書をカバンにしまう。置いて行ってもいいのだが、今日は梨佐に教えてやると約束した。必要になるだろう。すべてしまって、さて梨佐に声をかけようかと顔を上げたところで気づいた。
梨佐が座っている机の周りには、何人かの男女が集まっていた。教室で黙っている梨佐は、黙っているのでとても神秘的な美人だ。こういうことはよくある。
「棚町さん、今日は部活に行かないの?」
うん、とうなずく梨佐はいつものように微笑んでいた。その微笑みがモナリザと呼ばれる一因にもなっているのだろう。こうして見ている分には、本当に美人だ。なんで俺と付き合ってるのか、俺にもさっぱり分からない。
「先生が出張だから、今日は休みなんだよ」
そう言ったのはもちろん人見知りの梨佐ではない。クラス委員長で、梨佐と同じ合唱部の中野だ。男子にまじって、梨佐の隣に立っている。中野は女子の中でも小柄だから、埋もれているみたいに見える。
梨佐は、女子の中では中野にいちばん懐いていると思う。めったに喋らないけど、だいたい女子の集団でいる時には中野の隣にいるから、なんとなく。中野もそれが分かるからか、梨佐のことを気にかけてくれているらしい。中野はいかにも委員長という感じで、頭が良くて気がきいて面倒見も良い。ほとんど話したことはないけれど、俺は結構、好感を持っている。もう少し梨佐が心を開いて、いい友だちになってくれればいいのに、なんていう淡い期待を抱くくらいには。
「それじゃ、一緒に遊びに行こうよ」
誰かが言った。その途端、梨佐は勢いよく首を横に振った。笑顔をひきつらせ、うつむいてしまう。
「いいじゃん、梨佐。あたしたちも行くよ?」
面倒見の良い中野は、うつむいた梨佐に言った。
「ほら、梨佐って、あんまりあたしたちと遊んだことないじゃん? みんな梨佐と遊んでみたいんだって」
おそらく、中野は人見知りの梨佐を心配してくれているのだろう。しかし、中野の言葉にも梨佐はふるふると首を横に振った。……怯えているのが遠めに見ても分かる。
梨佐には人とのコミュニケーションがもっと必要だと、俺も思う。思うが、いきなりクラスメイトと遊ぶというのは、さすがにハードルが高すぎるのだろう。
俺はため息をついた。今度、中野に頼んで俺と三人でいることに慣れさせることから始めてみようか。頼みこめば、中野は聞いてくれるかもしれない。
「梨佐」
後ろから声をかけると、梨佐はぱっと振り向いた。目に涙をためている。梨佐にとっては恐怖だったのだろう。仕方のないヤツだ。
「悪い、こいつ今日、俺と約束してるんだ」
俺が言うと、梨佐はほっとしたような顔をした。首を縦に振って、中野を見る。「ごめんね」と蚊が鳴くような声で梨佐は言った。やっぱり、中野には懐いているようだ。
「梨佐、行くぞ」
俺が言うと、梨佐はカバンを手に取り、慌てて立ちあがった。俺の隣に小走りでやってくる。
「ちょっと、鈴江!」
周りの連中があっけにとられている間に帰ろうとすると、強い調子で呼びとめられた。中野だ。まだ驚いている周囲の中、一人腰に手を当てて俺を睨んでいる。
「あたしたち、まだ梨佐と話してるでしょ?」
「……梨佐、俺との約束やめて、遊びに行きたいか?」
俺が振り向いて聞くと、梨佐は俺の後ろでふるふると首を横に振った。教室内では、俺が相手でもこうして喋らないことが多い。
「行かないって。話は終わっただろ」
できるかぎり静かに言う。けれど中野はその表情をさらに険しくした。
「そんな聞き方したら、答えられるものも答えられないでしょ! 梨佐、怯えてるじゃん!」
「……」
確かに怯えている。ただ、俺にじゃなくて周囲にだと思うが。梨佐は困ったような顔をして俺と中野を見比べている。
中野は俺の後ろにいる梨佐に話しかけた。
「梨佐、鈴江に気ぃつかわなくていいんだよ? 鈴江とばっかりいたら、あんたがひとりになっちゃうでしょ? 鈴江も、梨佐が優しいからって甘えすぎ」
「……」
引っかかる言い方だ。
……なんだか、盛大に誤解されているような気がする。
中野の言葉に、周囲の連中も次々に口を開いた。
「……そ、そうだぞ鈴江。棚町さんが優しいからって、いい気になりすぎだ!」
「いっつもリサにつきまとって!」
「そういうの、ストーカーって言うんだよ! リサがかわいそう。気づきなよ!」
「……………………………………………………」
俺は何も言えなかった。衝撃で、言葉にならなかったのだ。
俺と梨佐がおかしな目で見られているのは知っていた。そりゃそうだ。かたや「モナリザ」と呼ばれる美女。かたや、キモいブサイク男。それが四六時中、一緒にいる。好奇の目にさらされて当然だろう。
誰も恋人とは見ていない。じゃあどう見えるのか。俺はそれを意識的、無意識的に今まであまり深く考えていなかったのだ。
――美女につきまとうブサイク。
まさか、そう見られていたとは!
少し考えれば分かりそうなものだが、俺の意識下では基本的に梨佐が俺にべたべたとまとわりついてくるのが普通だ。俺の方がつきまとう、という発想がまるでなかった。
けれど、確かに誰が好き好んで美人がブサイクにつきまとうと考えるだろう。普通は逆だ。
人間見た目じゃないなんて大ウソ、九〇%以上は見た目である。俺は骨身にしみてそれをよく知っている。知っていても、黄昏れたくなった。
遠くを見る。空は青く澄みわたり、デブにも優しい秋日和だ。このまま現実逃避をしていたいが、しかしそんな場合ではない。
仕方なく斜め後ろを見ると、梨佐は目を丸くして固まっていた。梨佐もそんなふうに見られているとは思わなかったのだろう。
俺はため息をかみ殺し、つとめて冷静に言った。
「俺は梨佐につきまとったことなんて一度もないし、ストーカーでもない。何度も言ってるし誰も本気にしてねぇから今さら言うのもなんだけど、俺は梨佐と付き合ってる」
俺の言葉に、周囲の連中は眉をしかめたり笑ったりする。「もうすこしまともなウソついたらぁ?」という声がどこかで聞こえた。こういうのは、まともに相手をするだけ無駄だ。
「信じようが信じまいが、それはおまえらの勝手だ。いくらでも好きにとればいい。けど、こういうのは迷惑だ」
だから俺はそれだけ言って、梨佐の手をとった。梨佐はまだよく理解できていないらしく、その大きな目をまん丸にしたまま、俺に引かれる。しかし、扉の前に今まで会話に加わっていなかった男子がたちはだかった。
「おい、逃げるなよ!」
いつの間にか、クラスのほとんどがこの会話を聞いていたらしい。誰もが事のなりゆきを見守っている。
ああ、さっさと帰りたい。物覚えの悪い梨佐に数学を教えるのは骨が折れるけど、それでもこんなところにいるよりもずっといい。根気はいるが、気長に構えていればそれほどつらくはない。少なくとも梨佐はいつも一生懸命だから、可愛げがある。
うっかり現実逃避していると、くすくすと嫌な笑い声が聞こえた。
「自分の顔見てみろっつの」
「超キモいんですけど」
「ふつう、棚町さんには近づけないよな」
そんな声がいくつも、どこからともなく聞こえる。俺はため息をついた。
こういうことは、悲しいかな言われ慣れている。まぁ、事実ではあるし、俺はガキの頃から生粋のいじめられっ子だ。嫌な気分にはなるが、今さらこの程度では傷つかない。
けれど、梨佐は違ったらしい。
「やめて」
それは小さな声だった。けれどきっぱりとした――梨佐の声。俺以外にそのことに気づいた者はなく、突然、響いた声に皆が視線をさまよわせている。
当の梨佐は小さく震えていた。うつむいているから表情が分からない。「梨佐」と小さく呼ぶと、唇を固く噛んだ梨佐が今にも泣きそうな顔で俺を見た。
大きなその目にいっぱい、涙がたまっている。俺はぎょっとした。本当に、泣き出す寸前だ。
それでも梨佐は前を向くと、はっきりとした声で続けた。
「ひどいこと、言わないで!」
今度はクラス中が梨佐に注目する。それが梨佐だと分かると、ざわめいていた教室は、しんと静かになった。クラス中の視線を受けても、梨佐はまっすぐに前を見ている。
俺は、感動していた。あの梨佐が、いつもいつも俺の後ろで小さくなっていた梨佐が、こんなにはっきりと主張をするなんて……青天の霹靂だ。十年近い付き合いだが、初めてのことである。
この大人数を前にして自分の言いたいことを言うのは容易じゃない、普通のやつでも尻込みするだろう。まして梨佐にとってそれがどんなに大変なことか、俺はよく知っている。
「梨佐、いいから」
俺は小さく震えている梨佐の頭を、ぽんぽんと撫でた。梨佐にしてはよく頑張った。上出来だ。俺はこれでもう今日のムカついた嫌な気分をすべて帳消しにできる。
上機嫌で笑ってみせると、まだ震えていた梨佐はぱちぱちとまばたきをして(まつげが長いから本当にそんな音がしそうな気がする)、それからぐしゃりと表情を崩した。
「う、うぅ」
「!」
限界だったのだろう。それまで震えてはいても毅然としていた梨佐が、うめいた。梨佐がうめくのは泣く前だ。あと少し、ほんのちょっとつつくだけで、梨佐は泣く。その光景が頭をよぎって――俺はうろたえ、気づくと、我ながら情けない上ずった声をあげていた。
「泣くな! 泣くなよ!! 俺は平気だから!!」
「ううぅうぅ、うぅう……だって、だって……」
俺が本気で嫌がるのを知っているから、梨佐は我慢している。たぶん周りにはほとんど聞こえないだろう。声を押し殺すようにして、必死に抑えている。それなのに、誰かがいらない一言を言った。
「何アレ、自意識過剰なんじゃない?」
教室が静かだからよく聞こえた。
……殺意が湧いた。人間、こういうときに犯罪者になってしまうのだろう。
案の定、限界を突破した梨佐は大きく息を吸い込む。
俺は、反射的に両手で耳を覆った。
「うわぁあああぁあん! あああぁあああぁあん!」
梨佐は全力で泣き出した。赤ん坊のように容赦ない。耳を覆っていても、ものすごい大音量だ。最近は合唱部で鍛えているから、前よりもパワーアップしているような気がする。腹から出ている、素晴らしい大声だ。くそっ。
「あぁあぁあああん! うえ、うぅ、うあぁぁああぁああん!」
その場に居合わせた人間は、誰もが固まっていた。
梨佐の周りに集まってたヤツらだけじゃない。クラス中、廊下にいたヤツらまで耳をふさいで、ビビっている。そりゃそうだ。高校生にもなってこんなマジ泣きするヤツなんぞいない。いたら怖いに決まっている。
それも、梨佐だ。あの、「モナリザ」とか言われるほど整った美貌の梨佐が、だ。ふだんの幼稚さを知らない連中にとっては、かなりのホラーだと思う。
「ああぁああぁぁあぁあん! ぅわぁああぁあぁああああん!」
梨佐はもちろん、そんな状況を理解できない。ひたすら全身全霊で泣き続けている。
「ちょ、鈴江! なんなの!?」
いちばんに我に返った中野が叫ぶように俺に聞いた。なぜ俺に聞く。
「おまえらが泣かせたんだろ……っ、こうなったらもう、好きに泣かせてやらないと、泣きやまねぇよっ!」
俺は怒鳴り返した。俺は知らん。こうなることはよく分かっていたから、全力で止めたのに。
「……り、梨佐」
俺の返事が聞こえたのかは知らないが、中野は泣きわめく梨佐に近づいてなだめようとした。……猛者である。
しかし梨佐は、中野の手を払いのけた。
「うわぁああぁあん! やぁああああっ! 礼ちゃん、れいちゃああん!!」
俺を呼ぶ梨佐に、中野がちょっと傷ついたような顔をする。仕方がないことだ。こうなった梨佐の目には、俺しかうつらない。……うぬぼれているんじゃない。悲しい事実だ。これおかげで、俺は今まで延々と梨佐の世話を焼き続ける羽目になったのだから。
「あー……はいはい、ここにいるって」
「れいちゃあん! うわぁああん!」
諦めの境地で梨佐に応えると、梨佐は俺の首に飛びついた。勢いがついて、思いきり床に尻もちをついてしまう。……痛い。
俺がクッションになったから、梨佐は痛くないはずだ。俺にしがみついて、わんわんと泣いている。泣いている梨佐の体温は当然のように高い。ものすごく暑い。暑いが、我慢である。俺は梨佐の背をとんとんと叩いて言った。
「はいはい、もう、気が済むまで泣け……」
「うわぁあああああぁあぁあぁぁぁぁああああん!」
「……」
ああ、まったく、鼓膜が破れたらどうしてくれる。
梨佐と初めて会ったのは、小一のとき。同じクラスになったのがはじまりだ。
どうしてなのかさっぱり思い出せないが、梨佐はなぜか俺に懐いた。まぁ、ブサイクはブサイクでも、写真を見る限り今と比べてそれほど太ってもいなかったしキモい外見でもなかったから、ちょっとしたことで懐かれたのだろう。
以来、十年。俺は今や、完全に梨佐のお守だ。
正直、嫌になることもある。俺にそんな無限の優しさを求められても困る。俺だって梨佐と同じ年のガキでしかないんだから。
それでも、梨佐が泣いていると放っておくことができない。何度も、このまま放りだせば梨佐だって諦めるかもしれないと思った。けど、俺はどうしても泣いている梨佐をそのまま置いてはおけなかった。
梨佐が泣いていると胸がざわざわして締めつけられて、頭をかきまわされているような気分になるから。泣きやんだ梨佐が見せる笑顔は、こっちが泣きたくなるほど本当に綺麗だから。
だから、きっと初めから、決まってたんだ。――俺が梨佐を好きになることなんて。
気づいた時には、もうどうしようもなかった。
梨佐はありえないくらいガキで、頭のねじが一本どころか二本も三本も抜けている。馬鹿ではないのに、信じられないほど天然のアホだ。会話はなかなかかみあわないし、一緒にいると途方もなく疲れる。
だけど。
だけど例えば、子どもみたいな無邪気な笑い方とか。いつも本気ですごく一生懸命なところ。まっすぐなところとか、意外と頑張り屋でやると決めたらやりとげるところとか、そういう、ひたむきなところ。そういうもの、梨佐を形づくるなにか、根っこのところ。
俺はそれが、たまらなくいとおしい。
「う、うぅ、ひっく、ううぅううぅぅ……」
「落ち着いてきたか?」
少し静かになった梨佐に聞く。梨佐はしゃくりあげながら、それでも小さくこくりとうなずいた。俺の学ランは梨佐の涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。クリーニングに出さなくてはならない。まぁ、デブはこんなときそれほど寒くないからいい。
「で?」
ハンカチで顔を拭いてやりながら聞く。どうして泣きたくなったのか、聞いてやると梨佐は落ち着きやすいらしい。経験が生み出した知恵だ。
梨佐はひくひくと酸欠の金魚のようにあえいでいる。せっかく綺麗なその顔もぐちゃぐちゃだ。泣き顔が美しいなんて幻想だと思う。少なくとも、梨佐の泣き顔は汚い。
せっかく拭いてやったのに、梨佐はまたぽろぽろと涙をこぼした。
「だ、だ、だ、だって! み、みんなが、れれ、れいちゃ、の、ことっ、いじめるっ!」
梨佐の言葉に、あっけにとられていた周囲の連中は顔をしかめた。俺は俺の胸に押しつけたせいでやっぱりぐちゃぐちゃになった梨佐の髪を梳いてやる。
「俺は平気。今さらだろ、こんなの」
全く平気というわけではない。俺は顔に似合わず繊細なのだ。けれど、束になって平気で人を貶められる連中に言われてへこんだところを見せるほど、プライドは低くない。俺は矜持の高いブサイクである。
もう一度、梨佐の頬を拭いてやる。ポケットからティッシュも取り出してあてがうと、梨佐は遠慮なく鼻をかんだ。
なれあいである。
「俺が平気なんだから、もう泣かないな?」
「うぅ……」
「なんだ? まだ何かあんのか?」
「……い?」
「あ?」
「りさの、こと、き、きらい、にならない?」
梨佐は泣いたあと、必ず聞く。俺がいつも梨佐に泣くな泣くなと言うからだろう。梨佐が泣くと頭がおかしくなりそうな気分になるから泣かれるのが嫌だなんて、そんな恥ずかしいことは死んでも言えない。俺は目をそらした。
「あー……今回はいい。お前が悪いんじゃないからな」
「そ、そうじゃ、なくて!」
「は?」
「きらいに、ならないで……」
梨佐はそう言って、また泣きそうな顔をする。
よく分からない。
梨佐は基本的にトロいのだ。頭の回転もはやくはないし、しっかりと自分の考えをまとめて話すのはあまり得意ではない。まして今はさんざん泣いて酸欠だ、余計だろう。
俺は聞いた。
「……梨佐? どうした?」
「う、うぅう……」
「泣くな、慌てんな。待ってるから、考えて話せ」
「ううぅ……」
梨佐の髪を梳いてやる。伊達に十年も子守をしてきたわけじゃない。俺はいつも梨佐に丸めこまれているけれど、同じように俺だって梨佐の扱いを心得ている。
やがて梨佐はぽつりと言った。
「梨佐といると、礼ちゃん、よけいにいじめられる……」
「……」
否定はできなかった。梨佐といると俺のキモさとブサイクさが引き立ってしまうのだ。俺単体だったらここまでひどくは言われないだろう。
梨佐も馬鹿ではない。そのくらいは理解しているらしい。
「でも梨佐、礼ちゃんがいないの、ヤダ。やだよぅ」
梨佐はまた表情を崩した。
「うわ、バカ、泣くな!」
「うぅううぅぅ、梨佐は礼ちゃんがいいの。礼ちゃんが好きなの。礼ちゃんがいなくちゃやだよぉ、やだぁあ」
また泣きだしそうになる。
……どうして解らないんだろう。俺はそんなこと、初めから承知している。こんなことで嫌いになるくらいなら、初めから好きになんてならないし、付き合わない。
「だぁっ、分かってるって! 分かってるから、泣くな!」
「う、うぅ、きらいにならない?」
「ならない!」
「梨佐のこと、好き?」
「……」
恥ずかしいヤツだ。どうしてこいつはこう、簡単に聞けてしまうんだろう。しかも、この衆人環視の中で。こういうところは、本当についていけない。
「うぅううぅぅぅぅ」
黙っていると梨佐がまたうなりだした。ああ、本当にもう!
「だあぁぁああっ、好きだからっ! もうめちゃくちゃ好きだから!」
「ほ、ホント?」
ヤケッパチで言うと、梨佐はようやく明るい顔をした。……可愛い顔をしやがる。こうなっては俺に勝ち目などない。
「本当ほんとう! もうすっげぇ好きだっつぅの!」
今や興味津々で取り囲んでいる周囲の視線が果てしなく痛い。痛いが、梨佐に泣かれるよりはましだ。
……本当に、何で俺はこんなのを好きになってしまったんだろう。
「梨佐のこと、好き?」
小首をかしげ、期待に満ちた目で梨佐が聞く。
「はいはい、好きですよ」
俺は直視できなくて微妙に視線をそらして答える。我ながら素晴らしく適当だ。それなのに、梨佐は本当に嬉しそうな顔をする。
「梨佐も礼ちゃん、好き」
「はいはい、知ってますよ」
にやけないように、やっぱり適当に答える。梨佐はふたたび俺の首に抱きついた。
「えへへ、礼ちゃん大好きー」
何百回、何千回聞いただろう。それでもやっぱり、温かい気分になる。梨佐の温度にくるまれて、俺はぼやいた。
「あー……おまえはホント、単純でいいな」
俺にはできない。こんなにまっすぐ好きだと言うことも、こんなふうにわき目もふらずに自分の気持ちを表に出すことも。それも梨佐に惹かれる理由のひとつなのだろう。……傍にいる俺自身はものすごく迷惑だと言うのに。
本当、この後どうしてくれよう。
「……で? まだ何か用ある?」
「……」
首に梨佐をくっつけたまま、俺は周囲を見渡して聞いた。固唾を飲んで俺たちを見ていたヤツらは、まるで梨佐みたいに無言でふるふると首を横に振った。
それはそうだろう。これだけ見せつけられて、梨佐と俺の仲を疑うヤツがいたら驚きだ。
梨佐はまだ夢中で俺にべったりとくっついている。俺は梨佐の背をとんとんと叩いて言った。
「……梨佐、帰るぞ」
顔を上げた梨佐は、輝くばかりの笑顔で元気に答えた。
「うん!」
ああ、疲れる。
疲れるけど……幸せだ。
この笑顔を見るためなら、俺はこの先もきっと何だってできるだろう。
俺は梨佐の手をとり、あっけにとられるクラスメイトたちを置き去りにして教室を後にした。
明日は大変だろうが、とりあえずもうどうでもいい。
今は俺の隣で浮かれている梨佐に、どうやって数学を教えてやるか。それがいちばんの問題。