モナリザの恋人、その後

 午前八時十二分。
 学ランなしのワイシャツ姿だと、まだ少し肌寒い。
 俺は、教室の扉の前で立ち止り、深呼吸をした。

 梨佐が教室内で号泣した翌日。
 昨日はもう半ばヤケになって何もかもがどうでも良いような気分だったから、たいして気にもならなかったのだが、さすがに一晩経った今は胃の辺りがずんと重たい。
 教室、入りたくねぇ……。
 心底思ったが、いつまでもそこで立ち往生しているわけにもいかない。
 いつものように俺と共に登校して隣に立つ梨佐は、不思議そうに目を丸くして俺を見ている。……仕方がない。
 俺は小さく息つくと、意を決して扉に手をかけた。
 がらがらとやけに大きな音を立てる扉に、内心舌打ちしながら教室に入ると、それまでざわついていたであろう教室は水を打ったようにしんと静まりかえった。まだまばら、けれど半分以上はそろっているクラスメイトたちの視線が、痛いほどに突き刺さる。
「……」
 俺はそこに立ち止まり、教室を見渡した。俺の視線移動にともなって、クラスメイトたちの視線が空を泳ぐ。

 ……どうやら、腫れモノ認定されたらしい。

 俺は正直、ホッとした。程度の差こそあれ、腫れモノ扱いならば今までとたいして変わらない。俺がしていた最悪の想像は、取り囲まれて質問責めにされる姿だ。
 安堵した俺は、そのまま何事もなかったかのように自分の机へと向かった。我ながら素晴らしく自然な動作だっただろう。梨佐も俺に続いて自分の席につく。
 一時間目の数学の教科書を取り出して、ぼんやりと窓の外を眺めてみれば、今日も空は青く澄んで高い。
 予鈴の音に前を向くと、何人かのクラスメイトが慌てたように視線を反らした。前方に見える梨佐は、見られていることに気づいているらしく、何やら落ち着かない様子で時々きょろきょろと辺りを見渡している。
 そこに担任が入って来て、教室はまた静かになった。

 とりあえず。
 昨日の騒動を思えば、今日も平和だ。

 一時間目、二時間目は特に問題なく済んだ。
 昨日、梨佐に教えてやった数学のプリントも、予定通り回収されていった。
 梨佐はほとんど俺に聞きながら、それでも一応、自力ですべての問題を解いた。何だかんだいって、梨佐はそういうところについては、割としっかりしている。

 三時間目、英語の授業中に俺は気づいた。
 斜め前方に見える梨佐が、ずっと机に両腕をついている。その体勢からすると、たぶん口元に両手を当てているのだろう。うつむきがちに、いつも必死に取っているノートにシャーペンを走らせる様子もなく、微動だにしない。
 チャイムと同時に、俺は梨佐の席に急いだ。
「梨佐」
 声をかけると案の定、真っ青な顔の梨佐が目だけで俺を見上げた。
「……」
 いくら教室内でも、梨佐は俺が呼べば返事くらいする。その声も出ないくらい、――調子が悪いのだ。
「保健室、行くぞ」
 俺がその腕を取りながら言うと、梨佐は力なくこくりとうなずいた。よろよろと、どうにか立ち上がって俺の手をとる。
 クラスメイトは俺たちのツーショットに、またしても無言でじろじろと見ているようだが、今はそんなことは気にしていられない。
 俺はゆっくりとした梨佐の歩調に合わせながら、教室を後にした。

 心当たりはあった。
 梨佐は人見知りが激しいが、人酔いも激しすぎる。
 見た目だけはべらぼうに美人だから、見られることには慣れているし、たぶんそれで普段、人目にまったく気づかないのだろうと思うが、今日みたいにいっぺんに多数の視線を集めてしまうとダメなのだ。昨日のようにある意味キレた状態ならまだしも、普通の状況でじっと周囲に見られていることに気づいてしまうと、とたんに気分が悪くなる。

 保健室につくと、先生は梨佐の顔を見るなりしばらく休むことを提案した。
 教室から出る間際、またしても凝視されたことが悪かったのだろう。梨佐の顔は今や紙のように白くなっている。俺は足元のおぼつかない梨佐を支えてベッドに寝かせると、その顔をのぞきこんだ。
 ぼうっとした目が俺を見る。
「……れいちゃん、ありがと」
 小さな声。俺は首を横にふる。
「昼休みに、また来るから」
 俺がそう言うと、梨佐は心細そうな顔をする。ものすごくサボりたい気分だが、そういうわけにもいかない。
 小さな頭を撫でると、梨佐はのどを鳴らす猫のように目を細くした。その目が、俺をとらえる。
「りさ、ねてる」
「ああ」
 俺の性格をよくよく理解している梨佐は、弱っていることもあってワガママを通す気力もないらしい。素直に折れるとそう言った。
 しおらしい梨佐は珍しくて、ものすごく後ろ髪を引かれたが、ここで態度をひるがえすわけにもいかない。
 俺はもう一度だけ梨佐の頭を撫でると、気持ちが変わらないうちに教室へと急いだ。

 前にやっぱり梨佐が人酔いして、保健室へと連れて行ったのは、この高校の入学式のときだった。
 今はだいぶ慣れたが、まだほとんど乗ったことのなかった電車に揺られて、その中でも周囲に見られ続け、学校に着いたら着いたで生徒たちの視線を一身に集めてしまった梨佐は、あっけなくダウンした。
 まだ何が何やら分からなかった俺は、近くにいた先生らしき大人に保健室の場所を聞き、梨佐を連れて行った。だから梨佐は、正確に言うと入学式には出席していない。

 その時のことをぼんやりと思い出しているうちに、四時間目は終わった。現国だから、ノートを取らなくてもどうにかなるだろう。
 俺はチャイムと共に梨佐の机にぶらさがった鞄を取ると、保健室へと足早に向かった。

「礼ちゃん」
 保健室につくと、梨佐はもう起き上っていて、寝ていたベッドに腰かけてその長い脚をぶらぶらとさせていた。俺に気づくと、ぱっと明るい顔をして軽い動作でベッドから飛び降りる。
「もういいのか」
「うん。梨佐もう元気!」
 にこりと笑った梨佐は、確かにさっきに比べればかなり元気そうだ。けれど顔色はまだあまり良くなくて、ただでさえ白い肌が透けてしまいそうに儚い。声も、いつもに比べるとまだ張りがないような気もする。
「って、おいっ!」
 俺がその様子をじっと観察していると、梨佐は何を思ったのか、へにゃっと表情を崩して俺にくっついてきた。
 カーテンで仕切られているとはいえ、向こうには保健の先生もいる。
 とっさにはがそうとすると、梨佐は今日もなかなか強固にくっついている。いつものとおりの能天気な顔で、「えへへへへー」とかなんとか、へらへらと笑っている。
 ……心配して損した。
「離せッ」
「やんっ、梨佐、礼ちゃんといちゃいちゃするぅ」
「アホ! メシ食ってからにしろっ」
「ぶー」
 小声で怒鳴りはがすと、梨佐はぶすっと頬を膨らませて俺を軽くにらんだ。いつもの梨佐だ。
 どこか安堵する自分を自覚して、俺は苦笑した。やっぱり疲れるが、変に大人しい梨佐よりも、こういう方がずっといい。
「ほら、行くぞ」
「うん」
 息をついて手を差し伸べると、俺をにらんでいた梨佐はまたへにゃっと表情を崩した。素直に俺の手を取る。
 ひんやりと冷たい梨佐の細い手。こうして手をつなぐのは、いつまで経ってもいまいち慣れない。
 赤くなっているだろう顔を見られないように、そっぽを向きながらカーテンを引くと、遠い目をした中野となぜか目が合った。
 思わず立ち止まる。歩き出そうとした梨佐が俺にぶつかる。
 ……。
 なぜだ。
 なぜここに中野がいる。

「えーと、お取り込み中、失礼?」
「ぐあぁあっ」
 まさか一部始終聞かれてたんじゃないよな、という俺の予想は大あたりしたらしい。中野はしらっとした声でそう言ったから、俺は精神に深刻なダメージを受けた。
 は、恥ずかしすぎる。
 思わず梨佐の手を振り払い、頭を抱えてしゃがみこむと、梨佐がしゃがんだ俺の背中にのしかかってきやがった。
「何すんだっ! くっつくな!」
「やっ!」
 すぐに立ちあがったが、梨佐は俺の背中にくっついたまま離れない。どうにかしようともがいていると、中野の生ぬるい視線が目に入り俺は思わず固まった。
「……」
「……」
「……ふにゃー」
 梨佐だけが満足そうに、意味不明の鳴声を上げる。

 ……前言撤回。
 やっぱりもう少し大人しくして欲しい。

 結局、騒ぎに気づいた先生に「元気になったなら外で遊んでらっしゃい」という小学生にでも向けるような言葉で保健室から追い出され、俺と梨佐と、なぜか中野は仲良く中庭で弁当を広げるハメに陥った。マジでなぜだ。
 首をひねる俺を尻目に、すっかり復活した梨佐は、俺が教室から持って来た弁当箱を広げる。
 彩りもあざやかな梨佐の手づくり弁当。
 大きさは違えども、中身はまったく同じ俺と梨佐の弁当を見て、それまで黙りこんでいた中野が口を開いた。
「これ、梨佐の手づくり?」
 その言葉に、俺が答えるよりも先に梨佐がこくんとうなずく。……珍しい。
 中野は梨佐の答えに、なぜか口元をひきつらせた。
 梨佐は俺に弁当箱を渡すと、きらきらとした目で俺を見上げてくる。(悲しいかな、背は梨佐の方が高いが、座高は俺の方が高いのだ。座ると梨佐は俺をわずかに見上げることになる)
 今日の弁当はトリのテリヤキに、ホウレンソウのごまあえ。それと、ツナの入ったいりたまごだった。飯には梅ゆかりがまぜてある。
 梨佐の弁当は今日も普通に家庭的で、普通にうまい。
「おいしい?」
 中野がいるから、小声だった。しかし梨佐はこうして必ず聞いてくる。
「ああ」
 俺もぶっきらぼうに答えると、梨佐はそれでもほっとしたように笑い、ようやく自分の弁当に手をつけた。
 四月頃は正直、じっと見られることに慣れなくてかなり食いづらかったが、最近はもう気にならなくなった。味だって、こいつのことだから味見くらいしているだろうし、そんなに毎日確かめなくたっていいのにとは思うけれど、どうしても気になるのだろう。
 俺たちの普段のやりとりを見ていた中野は、梨佐が弁当を食いはじめると気を取り直したように自分の弁当を広げた。ちらりと見ると、その弁当箱は梨佐よりもさらに小さい。中野は小柄だからそれで十分なのかもしれないが、俺には信じられない小ささだ。

「……」
「……」
「……」
 しばらくそのまま、三人とも無言で飯を食った。
 俺は普段からあまりしゃべらないが、梨佐は中野がいるからだろう。俺と二人でいる時は、家族の話とか、部活の話とか、そういうどうということもない、たわいもない話をよくする。これでも梨佐としてはマシな方だろう。これが中野以外だったら、きっと飯も食わずに俺の後ろにしがみついている。
 なぜか保健室からついてきた中野も無言で、ひと気のない中庭では初秋の日光だけがてらてらと存在感を訴えている。
 やがて、いちばんに飯を食い終わった俺は、弁当箱を片付けてあぐらを組んだ脚にひじをつき、梨佐と中野を眺めた。
 いつもならば本を読むのだが、今日は教室に置いてきてしまった。やることもないし、かといって二人を置いて教室に戻るのも気が引ける。

 梨佐は俺が食い終わったことに気づくと、慌てて自分の弁当の残りをかき込んだ。むぐむぐと、ひまわりの種をほおばるハムスターのように頬をふくらませて飯を食う。……行儀が悪い。
 注意しようかと思っていると、梨佐は超特急で残りの弁当を食い終わり、手早く自分の弁当箱を片付けた。ペットボトルの茶をぐびぐびと豪快に飲みほし、手の甲で口元をぬぐう。ふうと一息つくと、顔を上げた梨佐はあっけに取られていた俺をじっと見つめた。
 ……これは、獲物を狙うタカの目だ。梨佐のデカイ目に完璧にロックオンされて、俺は目をそらせなくなる。
 嫌な予感がする。
 本能的に身の危険を感じてじりじりと梨佐との距離をとろうとすると、梨佐の方も俺の方ににじりよってきた。
 それまでマイペースに弁当を食べていた中野が、異変に気づいて顔を上げる。
 俺は、地に手をつき、立ち上がって逃げようとした。よく分からないが、何だか怖かったのだ。しかし、俺の重い尻が宙に浮く前に、俺は、梨佐につかまった。

「ぎゃあ!」
 思わず情けない叫び声を上げてしまった。しかし梨佐はお構いなしに逃げかけた俺の背中にのしかかってくる。
 ぽかんと俺と梨佐を見ている中野に気づいて、俺はキレた。
「離せッ!」
「やーっ! 礼ちゃん、ごはん食べたら良いってゆったもん!」
「い、良いとは言ってない!!」
 肩にまわった腕を振りほどこうともがきながら叫ぶ。しかし、梨佐は俺にくっつくことについてはなかなかのエキスパートだ。そう易々とはがれてはくれない。
 じゃれつかれているうちに、俺はバランスを崩して地面にうつ伏せるように倒れてしまった。乾いた土と雑草の匂いが鼻を抜けてゆく。……屈辱だ。
 起き上ろうにも、背中には亀の子よろしく梨佐が乗っている。下手に起き上れば梨佐が落ちてしまうだろう。
「仲がいいわね」
 俺が身動きもとれずにぐったりしていると、顔は見えないが、中野のあきれたようなつぶやき声が聞こえた。

 ……むしろもう顔なんて上げたくねぇ。

 梨佐がこうもべたべたとくっつきたがるようになったのは、付き合い出してからのことだ。
 それまでも、泣き虫で甘ったれの梨佐は俺の後ろに隠れてばかりいた。泣いた後なんかは俺の腕にくっついていることもあったけれど、それでもここまでべたべたされたことはない。その辺り、梨佐も一応はわきまえているらしい。
 付き合いだした途端に、だった。初めは手を繋ぎたがるくらいだったのが、どんどんエスカレートして、一カ月も経たないうちに俺の背中に平気でのしかかってくるようになった。
 この状況は、正直、キツい。
 人前でくっつかれるとマジで顔から火が出るかと思うくらい恥ずかしいし、それに、俺だってこれでも一応は男だ。色々と思うところもある。
 だけど。
 昨日、梨佐の涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった学ランはクリーニングに出してしまったから、シャツ一枚の俺の背中に、梨佐の温度は日だまりみたいにあたたかい。
「えへへへへへー」
 浮かれた声がすぐそこでする。きっと梨佐は、今もへらへらと間のぬけた、だけど俺の好きな顔で笑ってるんだろう。
 ……ちくしょう。こんなの、どうやったって俺に勝ち目なんてありやしないじゃねぇか。

「梨佐って、ホントに鈴江のこと好きなのね」
 中野は何を思ったのか、ぽつんとそんなことをつぶやいた。
 その声がさっきと違ってしみじみとしていたから、俺は余計に恥ずかしくて顔を上げることができなかった。
 俺の背中で、梨佐はもぞもぞと動く。
「うん!」
 俺に答えるときと同じ、その元気な声に、中野が小さく笑った。

 予鈴が鳴る。
 ようやく梨佐から解放される口実ができた俺は、そそくさと梨佐の下から抜け出した。羞恥に染まった顔を見られるのが嫌で顔をそむける俺にお構いなく、梨佐はご機嫌で俺の左腕にぶら下がる。
「梨佐、鈴江」
 教室につくまでに、これをどうやってはがそうか。俺が思案していると、後ろから中野の声がした。振り向くと、中野はまっすぐに俺と梨佐を見上げている。
「昨日はゴメン」
 中野はまばたきもせずに俺たちを見つめたままそう言うと、深々と頭を下げた。横を見ると、梨佐も驚いたように目を丸くして俺を見ている。

 ああ、と。俺はやっと気づいた。中野はこれを言うためにわざわざ保健室に来て、俺たちについてきたのか。

「別に、気にしてない」
 ようやく腑に落ちた俺は、だからそっけなくそう答えた。
 別に中野だけがそう思っていたわけじゃない。信じがたいのは理解できるし、俺は誰かに信じてもらうために梨佐と一緒にいるわけじゃない。そんなことを気にしている暇があったら、ダイエットでもしている方がよっぽど有意義だ。
 ずっと頭を下げたままだった中野が、恐るおそるといった様子で顔を上げる。
 俺の隣にいる梨佐は、相変わらず不思議そうに中野を見ている。梨佐も気にしていないのだろう。というか、こいつの場合は何を謝られているのかすら分かっていないかもしれない。

 俺は梨佐の手を引いた。
「五時間目、遅れるだろ」
 歩き出す。こんな風にクラスメイトに謝られるのは妙に照れくさくて、俺は半分だけ振り向いて声をかけた。
「中野も」
 どこか心細げにたたずんでいた中野は、しばしきょとんとしていたが、俺の言葉に気づくと「うん」とつぶやき、口元をゆるめた。
 とことこと、小走りに俺と梨佐のところまでやってくる。
 隣に並んだ中野に、梨佐はにっこりと微笑んだ。
 元から直るほどの仲でもないが、まぁ一応、仲直りはできたのだろう。

 空になった三つの弁当箱がかたかたと鳴る。
 俺と梨佐と小さな中野は、三人で仲良く並んで教室へと急いだのだった。

(C) まの 2009