モナリザの天敵

「嫌だ!!」
 俺は廊下を全力で走りながら、力の限り叫んだ。
 梨佐に対しては我ながらよく声を荒げていると思うが、他の同級生相手にここまで声を張り上げることはそうそうない。
 しかし、俺を追いかけてくるその同級生は、それ以上の大声で叫んだ。
「そう言うなって! 頼むよ鈴江!!」
 ちらりと振り向くと、さっきよりは開いてきているが、それでもまだまだ近い距離にそいつはいる。俺よりはやせているがスマートとは言い難い、がたいの良い男子生徒。その割には足が速く、気を抜くと追いつかれそうになる。
 が、追いつかれるわけにはゆかない。幸い、俺は動けるデブだ。廊下の角を、ほとんど速度を落とすことなく曲がり、俺は叫んだ。
「嫌と言ったら嫌だ! 俺は柔道部には入らん!!」

 二年生の新学期初日。
 今年は去年と違って寒かったから、桜の花が遅くてまだ窓の外で咲いている。
 新学期初日だからと言って何が変わるわけでもない。俺はいつものように梨佐と登校し、クラス替えの発表を見てまた梨佐と同じクラスなのを確かめていた。
 一年の時の進路希望調査で梨佐は俺とまったく同じ希望を出しやがったから、たぶん同じクラスだろうと思っていたが本当に同じクラスだった。今はまだいいが、三年の進路選択までにはもうちょっとこいつに将来のビジョンを真面目に考えさせないとならないだろう。
 そんなことを考えていたら、「今年もよろしくー」と後ろから声をかけられた。
 振り向くと、相変わらず小さい中野が立っていた。俺は自分と梨佐の名前しか見ていなかったから気づかなかったが、どうやら中野とも同じクラスになったらしい。
 梨佐はにっこりと微笑んで、小さく「よろしくー」と答えた。中野とは昼飯をちょこちょこ一緒に食べているし、梨佐もだいぶ慣れてきたらしい。最近は、まだ声は小さいがちゃんと会話もできるようになってきたし、中野に向ける表情のバリエーションも増えてきた気がする。

 俺と梨佐と中野は、そのまま連れだって教室へと向かった。
「春休みは、どっか行ったの?」
「えっと、礼ちゃんと、お花見にいったよ」
「へぇー、でもまだ早くなかった?」
「んっと、ちょっとだけ。でも、きれいだったよ」
「いいねー、あたし、今年はまだ行ってない。あー、あたしもお花見行きたいっ!」
 中野は梨佐とそんな話をしていた。梨佐は俺としゃべる時に比べてかなりテンポは遅いが、それでもちゃんと受け答えはできている。梨佐相手にここまでちゃんとした会話になる他人は、俺以外だともしかしたら初めてかもしれない。中野の辛抱強さと面倒見の良さには感謝しなくてはならない。ここまで来る前に、大抵は脱落するのだ。
 そんなことを考えていた時だった。

「あ! 鈴江発見!!」
 前方から歩いてきた男子生徒が、行儀悪く俺を指さしていきなり声を上げた。
「は?」
 何が何だか分からなくて、俺は思わず立ち止まった。別に知り合いじゃない。ただ見覚えはなんとなくある気がするから、たぶん一年の時に違うクラスだった同級生だろう。
 俺につられて立ち止った梨佐は、見慣れない男子生徒にささっと俺の後ろに隠れた。中野はなぜか、「あー……」と面倒そうな声を上げる。中野の知り合いなのだろうか、その割にはなぜ俺を呼ぶと思っていると、その男子生徒はこちらに小走りでやってきた。
 がたいの良い、それでいてどこかあどけない童顔の男子生徒だ。そいつは何の前触れもなく、いきなり俺の両腕を掴んで言った。
「鈴江、柔道部に入ってくれ! 柔道部にはお前の力が必要なんだ!」
「……は?」
 我ながら思い切り怪訝そうな声が出た。そりゃそうだ。なんとなく見覚えがあるくらいの男子生徒になぜそんな勧誘をされる。何を言い出すんだコイツは、と渋面をつくってそいつを見上げたが、相当鈍感なのかまるで意に介した様子もない。
「柔道部ね、部員が足りないらしいのよ。一年の勧誘はするにしても、今までの実績も全然ないから向いてそうなのに片っ端から声かけるって、そういえば去年の最後の生徒会で息まいてたわー……」
 代わりに中野が遠い目でそう教えてくれた。
 それはつまり、俺はその向いてそうなのの一人に選ばれたということか。……冗談じゃねぇ!
「い、嫌だ! 俺は柔道部に入る気はない!!」
「そんなこと言わずに! お前、絶対向いてるから!!」
 思わず叫んだ俺を、その男子生徒はムリヤリどこかへ引きずって行こうとした。なんつう強引さだ。俺がその場にふんばると、そいつはようやく本音を口にした。
「とりあえず部室に来てくれよ! 連れてかないと、オレが先輩に怒られるんだって!」
「んなこと知るかっ! 俺は嫌だッ!!」
 少なくとも、こんな強引な手段を取られて黙ってほいほい付いてゆくほど俺はお人よしじゃない。
 俺は俺の隣でおろおろとしていた梨佐に自分の鞄を渡した。梨佐は反射的にそれを受け取る。そしてそれごと、ぼーっとこちらのやりとりを他人事のように眺めていた中野の方に梨佐を押しやった。
「梨佐頼む」
 小さな中野は、突然のことに驚きながら、それでもしっかりと自分よりもでかい梨佐を受け止める。俺はそれを確認すると、その場から脱兎のごとく逃げ出した。
 三十六計逃げるにしかず。
 先人の知恵はマジで貴い。

 廊下の角を曲がりまくり、階段を上り下りしてどうにか強引な柔道部員をまいた俺は、始業時間ぎりぎりに教室に滑り込んだ。
 ここまでの全力疾走は体育の授業でもなかなかしない。さすがに息が乱れて、扉近くのクラスメイトに不気味なものを見るような目で見られる。
 俺だって好きでこんな息を切らしてるわけじゃない。心の中だけで言い訳をして、俺は梨佐の姿を探した。中野がちゃんと面倒を見てくれたのだろう。さっき予鈴が鳴っていたから、梨佐はもう自分の席についている。教室に入って来た俺を見つけて、こちらに顔を向けていたのですぐに分かった。心配そうに俺を見ている。
 俺は大きくひとつ息をつき、少しは息が整ったのを確認すると、梨佐の方に歩いて行った。出席番号順だから、俺の席はどうせ梨佐より少し前のぽつんとひとつ空いているところだろう。さっき梨佐に預けた鞄がちゃんと置いてある。
 俺は歩きながら梨佐の小さな頭に少しだけ手を乗せた。そのまま歩いて自分の席につく。
 それと同時に本鈴が鳴った。
 ……まったく、ろくでもない二年のスタートになったものだ。

 体育館で就任式と始業式を済ませると、教室に戻ってさっそく自己紹介が始まった。ちなみに俺は朝から激しい運動をしてしまったので、就任式も始業式も記憶があいまいだ。普段から校長の話なんてほとんど聞いていないが、今日はもう全く覚えていない。
 同じ調子で眠気と闘いながらぼんやりとクラスメイトの自己紹介を聞き流していた俺は、見知った顔が教壇の前に立ったことに気づいて思わず二度見した。
 背の高い梨佐も軽々と見下ろせるであろう長身。均整のとれた身体つき。でかい目が印象的な、甘い顔立ち。その男子生徒は快活に自己紹介を始めた。
「久慈 恵(くじ めぐむ)です。バスケ部でセンターやってます。趣味はスポーツ観戦です。ヨロシク」
 女子生徒の嬌声を含んだ小さな声がさざめく。
 眠気がふっとんだ。
 久慈 恵。こいつとだけは同じクラスになりたくなかったのに……!
 俺は思わず頭を抱えた。

 久慈は梨佐ほどではないが、この高校では割と有名だ。
 顔がいいし、不思議と華のあるヤツだから久慈の周りには男女問わず人が集まる。俺とは対極にあるような男だから、本来ならば何の関わりもないはずだった。
 ……本来ならば。

「鈴江ー!」
 ホームルームが終わって、今日は厄日だとにかくさっさと帰ろうと慌てて帰り仕度をしていたら、そう呼ばれていきなりがしりと後ろから抱きつかれた。梨佐ではない。
「うぜぇ!」
 梨佐ではないからヒジ鉄をくらわせようとすると、そいつはぱっと俺から離れる。振り向くと案の定、そいつ――久慈がもろ手を上げて立っていた。
「うっわ、冷たッ! 今マジでヒジ鉄入れようとしただろっ!」
「ったりめぇだろ! 俺に絡んでくんな!」
「何だよー友だちだろー。同じクラスになったんだから仲良くしようぜ!」
「ゴメンこうむる!」
 俺はそう言って久慈をにらみつけた。
 新たなクラスメイトたちが面白そうにこっちを見ている。俺と久慈は見るからに正反対だから、奇妙な取り合わせが興味をそそるのだろう。しかし俺も梨佐ほどではないにしても、他人にじろじろと好奇の目で見られて良い気分はしない。
 どうしたものかと頭を抱えていると、人波からひょっこりと中野が顔を現した。
「鈴江って、久慈と友だちだったの?」
 中野はストレートに聞いてくる。他のクラスメイトみたいに黙ってひそひそとささやかれるよりはだいぶマシだ。
 俺が答えようとすると、それより先に久慈が口を開いた。
「そうよー、マブダチさっ!」
「いつマブダチになった!」
 思わず間髪をいれずにツっこんでしまう。久慈は拗ねたような声を上げた。
「小学校からの仲じゃんかー」
 間違いではない。中学は学区が違ったが、小学校は一緒だった。しかも、何の因果か六年間同じクラスだった。が、それ以上でもそれ以下でもない。少なくとも俺はこいつと友だちになった覚えはない。
「あのなぁ……!」
 あきれて反論しようとしたら、久慈に言葉をさえぎられた。
「お、棚町。相変わらず美人だなー」
「……っ!」
 久慈に気を取られていて気づかなかった。いつのまにやら近くまで来ていた梨佐が、久慈に声をかけられて慌てて俺の方へと走って来る。梨佐は俺の後ろに大きな身体を丸くして隠れようとした。
 それを見た久慈が笑う。
「おー、相変わらず鈴江の後ろにいんのな。よーしよしよし出ておいでー」
 まるで野良猫でもおびきよせるみたいに手を出す。梨佐はそれこそ人慣れしていない野良猫が毛を逆立てている時みたいに警戒心丸出しの顔で小さく怒鳴った。
「梨佐、久慈くん、大ッキライ!!」
 ふーっといううなり声が聞こえそうだ。俺は天を仰いだ。こうなることが分かっていたから、久慈と同じクラスになるのだけは嫌だったのだ。俺単体だったらまだしも、梨佐と久慈はできるなら引き離しておきたい。
 俺がひとり疲れていると、中野が言った。
「梨佐には随分嫌われてんのね」
「あはははは、オレ小学校の頃、棚町と鈴江のことイジメまくってたからなー」
「は?」
 あっけらかんと言った久慈の言葉に、中野が固まる。
 俺はため息をついて、俺の背中にくっついている梨佐を流し見た。

 小学生の頃、梨佐をイジメていた男子は複数いた。その中心人物が久慈だった。
 イジメといってもとにかく梨佐を泣かせることが目的だったから、大人が見れば微笑ましいくらいなもんだったと思う。だから先生はまるで当てにならなかった。
 だけど梨佐はいつも本気で怯えていて、毎日のように泣いて俺の後ろに隠れていた。やられた本人がイジメだと思ったらそれはもうアウトだろう。
 なぜか梨佐に懐かれていた俺は、そのたび「いいかげんにしろ!」と久慈にくってかかっていた。正義感などではない。
 俺は子どもの頃、梨佐が泣くと無性にイライラした。何が楽しくて梨佐を泣かせるのかさっぱり分からない。だから、久慈たちに対して、くだらないことばっかりしやがってといつも腹を立てていた。
 梨佐が泣くとイライラして、だけど泣いている梨佐に怒ったって意味はないから、泣かせた張本人に「いいかげんにしろ!」と怒鳴っていた、それだけだ。
 しかしそれが結果的に梨佐をかばうことになって、俺はますます梨佐に懐かれ、そして久慈たちに目の敵にされる羽目になった。

「そんなあっけらかんと……」
 俺と梨佐をイジメていたとカミングアウトしてもけろりとしている久慈に、中野はあきれたような顔で言った。久慈は力なく笑う。
「だって本当のことだし。棚町がオレのこと嫌っても当然じゃん? それなのに理由言わないのって、なーんか卑怯だろ。かと言って『反省してますぅ』ってこびへつらって言うのもなんかさ、棚町に『許して下さい』ってアピールしてるみたいで気持ち悪いじゃん。や、反省はしてるけどさ。許してほしいっつーのはオレのエゴだろ」
 ふざけているように見えるが、久慈は久慈なりにいろいろと考えているらしい。それが分かったのか、中野はまんざらでもない様子で「ふぅん」と相槌を打った。しかし、久慈はそれが恥ずかしかったらしい。
「鈴江は許してくれたんだけどなー」
 せっかくまともっぽいことを言っていたのに、冗談めかしてそう言った。俺にはその感覚がよく分からないが、真面目だとかちゃんと考えているだとか思われるのが、久慈は恥ずかしいらしい。
 久慈をにらみつける梨佐は、痛いほどにきつく俺の腕を掴んでいる。
 俺は再びため息をついて答えた。
「俺は自分にされたことを許しただけで、オマエが梨佐にしたことは今でも恨んでるからな」
 小一から小五の半ばくらいまでさんざんイジメられたが、今思えばそんなに大したことをされたわけでもなし、俺は梨佐と違ってその程度で傷つくほど可愛げのあるガキではなかった。それに、他の連中と違って、久慈だけはちゃんと俺と梨佐にワビを入れたし、久慈なりにケジメもつけていた。
 だから俺がされたことはどうでもいい。久慈だって子どもだったし、罪を憎んで人を憎まずとは良く言ったもんだ。
 だけど、梨佐は本当に傷ついていた。それを許すか許さないかは梨佐にしか決められないことだが、俺は俺でそれなりに恨んでいる。
 久慈は一瞬、寂しそうな顔をした。
「うん、知ってる」
 だけど、それは本当に一瞬の事。またすぐに、久慈は笑って見せた。
「けどそんな度量が広くて棚町ラブな礼ちゃんがオレは好きよん」
「キモい」
「ひどっ」
 傷ついた、と胸に手を当てる久慈は、悩みなんて何にもなさそうに見える。……こいつもこいつで、複雑なやつだ。

 それから一週間。
 新しいクラスにそれぞれが馴染み始め、教室内にはすでにいくつかのグループができている。俺は去年と同じように、クラスでは微妙に浮いていた。
 無理もない。しつこく勧誘にやってくる柔道部員やら、妙にからんでくる久慈をかわしつつ、機嫌の悪い梨佐のお守をしているのだ。悪目立ちするにも程がある。
 梨佐は最近、本当に機嫌が悪い。理由ははっきりしている。……間違いなく、久慈だ。梨佐は初日に言っていた通り、久慈のことが本気で嫌いなのだ。
 機嫌の悪い梨佐はいつものモナリザのような微笑を浮かべることもなく、ひたすら近寄りがたいオーラを発している。おかげで、クラス替えで浮ついた男子どもが近づかないからそれは良いのだが、代わりに中野以外の女子も近づけない。それでいて、五分休みですら俺についてくるから目立って仕方がない。
 おまけに、初日は気づかなかったが、以前、中野が注意しろと言っていた加藤とも同じクラスだった。
 厄年はまだ先のはずなのだが、今からこれでは先が思いやられる。

「……おい」
 昼休み。中庭で飯を食い終わり俺がぐったりしていると、相変わらず機嫌の悪い梨佐がべたりと俺にくっついた。それはまぁいつものことだし、今は周りに人影もないから構わないのだが、梨佐はもごもごとみじろいでガキのように俺のひざに乗り、コアラよろしく正面からべたりと俺にしがみついた。……俺はユーカリの木じゃねぇ。
 こいつはいつも忘れている、というか分かっていない気がするが、これでも俺だって一応は男だ。ものすごく不本意だが、好きな女に抱きつかれればどきどきする。ましてこんな体勢ではイロイロと非常にマズい。
「もう少し離れろっ!」
「やーっ!」
 機嫌が悪いせいか、いつにも増して幼児化している梨佐は、俺がはがそうとするとますますしがみついてくる。……まったく、人の気も知らないでコイツは!
 腹立たしさも手伝って、半ば強引に引きはがすと、梨佐は盛大に表情を崩した。
「う、うぇ、う、うぅぅうぅう!!」
「だぁああっ、泣くな!」
「だって、だってぇえ! 礼ちゃんがイジワルするぅう!!」
「意地悪じゃねぇっ!」
 怒鳴るが、このまま突き離したら本当に泣かれそうだ。
「う、うぅ、うぅぅう、ううう!」
「ああもう!」
 案の定、今にも泣き出しそうな唸り声を上げる梨佐に、俺はぐしゃぐしゃと頭をかき回した。……背に腹は代えられない。
 その細い肩を後ろから抱く。梨佐の小さな頭が、俺の左肩に当たった。
 突然のことに驚いたような顔をした梨佐が、そのでかい目をまん丸くして俺を見る。
「こっち見んなッ」
 恥ずかしくて、俺はそっぽを向いた。本当に、こんなのは俺のガラではない。
 梨佐はしばらくそのまま固まっていたが(梨佐は頭の回転が遅いから、状況が理解できるまでに時間がかかる)やがて肩に回した俺の腕に、そっとその手を乗せた。
「……えへへ」
 能天気な声がすぐそこでする。ちらりと見ると、さっきまでの不機嫌さもどこへやら、梨佐はへらへらとした顔で笑っている。

 中庭の花壇にはパンジーの花が咲いている。
 春うらら、久しぶりに見る浮かれた梨佐を可愛いとか思うあたり、俺の頭はすっかりイカれているに違いない。まして、このまま幸せそうなマヌケ面を見ていたいとか思う俺の頭の中こそ花畑だ。
 しかし、俺には言わねばならないことがある。
「おまえさ……」
「ふえー?」
 声をかけると、梨佐は夢を見るような顔で俺を見た。ちくしょう、可愛い顔をしやがる。この顔を曇らせたくはない。しかし、言わなくてはならないのだ。
「いい加減、久慈に慣れろよ」
 この一週間、梨佐はずっと不機嫌だった。このまま一年、ずっとこんな調子ではたまらない。
「……」
 案の定、梨佐は俺の言葉を聞いた途端にすっと表情を強ばらせた。

「梨佐、久慈くん嫌い。大っきらい!」
 梨佐は投げつけるようにそういった。いくらやめろと言っても直らない、子どものように頬をふくらませて、ふてくされる。
「それは知ってる。別に好きになれとは言わねぇって。ただ、どうしたってこの一年は同じクラスなんだから、あいつがいることくらいは許してやれって」
「イヤ!!」
 梨佐は横面を張るような激しさで言う。
 思わずこぼれたため息は、想像以上に深かった。
「おまえはマジで久慈が嫌いだな……」
 本当に。
 久慈の自業自得だし、仕方がないとは分かっているが、そこに存在することすら許せないほど嫌いというのも凄まじい。
 俺のつぶやきに、梨佐は俺の腕を力一杯握りしめて言った。
「だって久慈くん、梨佐から礼ちゃんとるんだもん!!」
「……は?」
 何だそれは。
 訳が分からずその顔をのぞき込むと、梨佐は憮然とした顔で続けた。
「六年生のときもそうだったもん。久慈くん、ずうっと礼ちゃんのそばにいたよ!」
 確かに、ワビを入れられてから久慈は何故かやたらと俺に構うようになった。今だって、放っておいてくれれば良いものを、梨佐と張り合うように俺に寄って来る。……梨佐は盗られたと思っていたのか。
「久慈くん、礼ちゃんのこと好きなんだよ!」
「気持ち悪いこと言うなよ……」
 むすっとした顔で力説する梨佐に、俺は言った。何だか、梨佐の言い方だとまるで久慈が梨佐と同じように俺を好いているみたいで心底気持ち悪い。
 まぁ、たぶんあいつはあいつなりに俺に悪いことをしたと思っているらしいから、贖罪のつもりなのだろう。……なんつう有難迷惑だ。
 俺はため息をついた。
「別に、盗りやしねぇよ」
「そんなことないもん!」
 梨佐は相変わらず頬をふくらませている。こいつは妙にガンコだから、いくら俺が盗らないと言っても、聞く耳を持たないだろう。
 俺は続けた。
「天地が引っくり返ってもありえねぇが、万が一、盗ろうとしたところで、俺がオマエより久慈をとると思ってんのか?」
 口にすると、改めてバリバリに違和感があった。どうしてあの久慈がわざわざ梨佐から俺を盗らねぇとならないんだ。
「あー……俺、何言ってんだろ……」
 思わずぼやく。梨佐は俺を過大評価しすぎだ。その思考回路に合わせて会話していると、脳内ツッコミが忙しくて本当に疲れる。
 しかし梨佐は、ぱちぱちと瞬きをくり返すと俺の顔をのぞき込んで言った。
「礼ちゃん、久慈くんよりも梨佐の方が好き?」
「ああ、そうだな」
 元いじめっ子と恋人(仮)だ、比べるまでもないのに、どうしてこいつは比べてしまうのか。俺にはそっちの方が理解できない。
 ため息まじりに答えると、梨佐はまだ納得がいかないらしく続けた。
「久慈くんの方が好きにならない?」
「ありえねぇ」
 俺にそっちの趣味はない。梨佐の聞き方だと思わずそう答えたくなるが、それでも何とか梨佐に合わせて答えた。
 俺としては、久慈は知り合い以上友人以下という意識だ。まったくありえない。
「えへへー」
 梨佐は俺の答えに、ようやくへらへらと笑った。
 満足そうに俺の腕を抱きしめて、俺に体重を預けてくる。
「……」
 俺はその幸せそうな顔を眺めながら思った。
 男でも女でも、俺はこの梨佐以上に誰かを好きになることなんて、できるのだろうか。

 ……想像ができない。

 その日の放課後。
 俺は柔道部を早々にまき、書道室に籠った。柔道部は相変わらずしつこいが、それでも当初に比べればだいぶましになってきた。俺は、このまま諦めてくれるまで逃げ切るつもりでいる。
 書道室には、週一の活動日以外、大抵は俺しかいない。そこでいつものように時間をつぶした。梨佐の部活が終わる頃合いを見計らい、玄関へと向かう。

「す・ず・えー」
 今日はまだ梨佐が終わっていなかったので、下駄箱で靴に履き替え待っていると、能天気な声が響いて突進された。もちろん梨佐ではない。
「だぁっ! 寄ってくんな!」
 ユニフォーム姿の久慈だった。汗臭いヤロウに密着されて気分がいい訳がない。肘鉄をくらわせるふりをすると、久慈はぱっと俺から離れた。
「礼ちゃんったら相変わらずつれないんだからっ」
「だからキモい! 俺にキモいとか言われたらおしまいだろ!」
 わざとらしく、くねくねとシナを作って言う久慈に、俺は思わずツッコんだ。まったく、こいつはもう少し恥じらいというもんを持つべきだと思う。しかし、俺のツッコミもどこ吹く風、久慈は「あはははは~」とこちらの力が抜けるような能天気な声をあげて笑っている。

「お、棚町」
 その時、久慈が俺の後ろに向かって言った。
「……」
 振り向くと、鞄を持った梨佐が下駄箱のすぐ近くで立ち止り、俺と久慈の様子を憮然とした顔で眺めている。
 俺と目が合うと、梨佐はずかずかとこちらへ向かって歩き、ローファーに履き替え、俺の腕を取った。
「礼ちゃんは、久慈くんより、梨佐の方がすきだもん!」
 梨佐は噛みつかんばかりの勢いで、久慈に向かって言う。いきなり怒鳴られた久慈は、ぽかんとした顔で梨佐を見た。
「あー……」
 俺は思わず遠い目をした。昼休み、あれだけ言ったのにこいつはまだ納得していなかったのか。
 俺が現実逃避していると、やがて、久慈が噴き出した。
「本っ当、棚町って鈴江のこと好きだよなー」
 けらけらと笑いながら、久慈が言う。俺は思わず言葉につまった。他人にそういうことを言われると恥ずかしい。
 俺が何も言えずにいると、久慈はにやりと笑った。
「けどオレも鈴江のこと好きだしぃ」
「!」
 久慈にはたぶん、悪気はない。それは分かっているが、腹が立った。コイツのこういうところのせいで、俺がどれだけ苦労してきたことか。
 梨佐は目を丸くして久慈を見上げている。その目は完璧に本気の目だ。
「お前は話をややこしくすんな!」
 俺は久慈に向かって怒鳴り、梨佐に向き直って言った。
「梨佐も本気にすんな! あいつは全部冗談で言ってるんだ!」
 しかし、梨佐はすっかりマジな目で久慈をにらみつけている。まったく、たまったもんじゃない。久慈は梨佐ににらまれてようやく気づいたようで、バツの悪い顔をした。
「えーと、あれ? 棚町、本気にしてんの?」
「こいつに冗談が通じると思ってんのかよ!」
 聞かれた俺は、腹立ちまぎれにふたたび怒鳴った。それでようやく少し冷静になる。息をついて、仕方がないと自分に言い聞かせれば諦めもついた。
 梨佐のお守をし続けてきたせいか、俺はこういう時の諦めはいい方だと思う。
「……あー、うん。ごめん、冗談だから、安心しろって」
 しばらく梨佐とにらみ合いをしていた久慈は、やがて素直に謝った。こいつのこういうところは嫌いじゃない。だから何だかんだいって腐れ縁が続いているのだろう。
「ほら、こいつもこう言ってるだろ」
「……ほんと?」
 ため息交じりに俺が言うと、梨佐はまだ疑うようにじとりと俺を見た。それに久慈が答える。
「ホントほんと」
 調子は軽いが、顔は真剣だった。久慈の真剣な顔は珍しく、梨佐はしばらく俺と久慈の顔を交互に見ていたが、やがてこくりと小さくうなずいた。……一応、納得してくれたらしい。

「帰るぞ」
「うん」
 歩き出した俺の後ろから、梨佐がとことこと付いて来る。子どもの頃から変わらない、俺と梨佐の帰り道。
「棚町」
 ふと、後ろから久慈の声がした。隣に並んだ梨佐が振り向く。俺もそれにつられて振り向くと、久慈は相変わらず真面目な顔をしていた。
「オレとなんか比べもんになんないよ。鈴江は、棚町のこと世界一大切だから」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
 理解して、頭に血がのぼる。
「うるせぇ!」
 思わず叫んだ。梨佐はきょとんとした顔で俺を見ている。それに気づいて、頬が熱くなった。まったく、突然何を言い出すんだ。恥ずかしすぎる。
 俺はいたたまれなくなって、梨佐の腕を掴んだ。ぼうっと俺を見ている梨佐をひきずるように歩く。
「また明日なー!」
 ずんずんと歩いていると、後ろで先ほどとは打って変わって能天気そうな声が聞こえた。
 もう振り向かない。
 これから一年、こんな調子なのかとぐったりしつつ、俺は梨佐と並んで校門をくぐった。

(C) まの 2009