モナリザと愛の告白 《前編》

 木枯らしの吹く学校の中庭。
 暦はもう十二月も半ば。少し前までいつも昼休みを過ごしていたその場所も、寒すぎて最近はご無沙汰だった。
 それなのに、今日に限ってわざわざここにやってきたのは、もちろん好きこのんでのことじゃない。

「……」
「……」
「……」

 目の前にはいつもどおりの梨佐。それと、名前も知らない三年の男子が俺をにらむように横目で見ている。
 そんな目でにらまれたって、俺も困る。
 俺は心の中でため息をついた。

 話は十分ほど前にさかのぼる。
 四時限目終了のチャイムと共に、俺はぱたんと化学の教科書を閉じた。
 昼休み。教室はいっぺんにざわめきに包まれる。
 俺はのんびりと教科書を机にしまい、控えめにのびをした。ななめ前方に見える梨佐は、また分からないところでもあったのだろう。まだもたもたとノートをとっている。
 いつものことなので、俺は片肘をついてその後頭部をぼんやりと眺めていた。
 天然パーマでいくら短く切ってもあっちこっちにツノを立てる俺の髪とは違って、黒板を見ようと顔を上げたり下げたりするたび肩からこぼれる梨佐の黒髪はさらさらと音をたてそうなほど一片のひっかかりもない。
 綺麗なもんだなぁと思って見ていたら、見慣れない男子生徒が俺の視界に入った。その生徒が、何やら梨佐に話しかける。俺の席ではその声までは聞こえないが、まだノートをとっていた梨佐は、驚いたらしい。大げさに肩を震わせると、いつもの外面微笑を浮かべて座ったままその男子生徒を見上げた。(たぶん視線は微妙にズレている)
 今さら言うまでもないが、梨佐は美人だ。黙っていれば、超絶美人だ。ただ、間違っても親しみやすいタイプではないので(黙っていれば神秘的で近よりがたい雰囲気の美人、しゃべれば中身は幼稚園児だ)、こんな風に一人の男子生徒に話しかけられるのは珍しい。
 どうしたのかと思って相変わらずぼんやりとその姿を眺めていると、突然、梨佐が立ち上がって俺の方に小走りでやって来た。
「あ? な、ちょ、まっ……ぐぇ!」
 ようやくその表情がはっきり見えるくらい近づくと、梨佐はすでに半泣きで、どうしたと聞く間もなく問答無用で座っている俺の首に腕をまきつけてくる。いつもどおり、苦しいし痛い。が、なによりも教室内だ、恥ずかしい。
「……っ! ……っっ!!」
 ばしばしとその腕を叩いて離せアピールをするも、梨佐は無言でひたすら俺の背に隠れようとそのでかい身体を丸くして密着してくる。まったく、どうしたっていうんだ。
 どうにかその腕を首から肩あたりにずらして一息ついたところで、それまで呆気にとられていた、梨佐に話しかけていた男子生徒が俺の所に歩いて来た。
 身長は梨佐より少し高いくらいだろうか。眉や髪型など、きっちり手入れされている。まぁ、今風のそこそこ小ぎれいな男子生徒だ。
 関取体型の自分のことはとりあえず棚上げしておいて、近づいて来たその男子生徒をそう判断する。と、それで初めて、つめえりについているバッジに気づいた。……この男子、三年だ。
 見覚えのない三年男子が何で一年の教室に来て梨佐に話しかけているのか。嫌な予感がする。
 しかし、その男子生徒は俺の予感などおかまいなしに、座っている俺の姿を上から下まで品定めするように眺めて、俺の後ろにくっついている梨佐に目をとめると眉をしかめた。
「……オレ、棚町さんに用事があるんだけど」
「はぁ」
 そんなこと、俺に言われても困る。ちらりと横目で見ると、梨佐は俺の肩に顔を埋めてふるふると小さく首を横にふる。
 相変わらず困ったヤツだ。
「よろしければ、ここでどうぞ」
 仕方なく俺がそう言うと、三年男子はあからさまに嫌そうな顔をした。
「ふたりで話したいんだけど」
「あー……」
 嫌な予感、的中。
 今までも何度か、こういうことはあった。
 よく知りもしない梨佐とふたりで話したいって言う男子の大半は、告白だ。梨佐は近よりがたい雰囲気の美人だからそこまで多くないが、小学校高学年の頃から年に一・二回はある。あとは美術部にモデルになってくれと言われたり、演劇部に舞台に出てくれと言われたり。まぁ、大抵は(梨佐にとって)ろくな誘いじゃない。
 昼休みのはじまりに浮足立っていたクラスメイトたちが、おもしろそうにこちらを見ている。
 俺はしぶしぶ、自分の席を立ち、教室内にも関わらず俺にべっとりくっついてくる梨佐をはがした。一瞬、心細そうな顔をした梨佐の手を、しっかりと握る。
「じゃあ、行きましょう」
 上級生だから、俺は一応、丁寧にそう言った。空気を読まない三年男子は「は?」と言葉をつまらせる。
「梨佐とふたりで話したいんでしょう。ついてきて下さい」
「……」
 俺はそれだけ言って、梨佐の手を引き教室を出た。あっけにとられていた三年男子は、少し遅れて結局ついて来た。
 ……ついて来なければ来ないで、その方が俺的には良かったのだが。

 そして話は冒頭に戻る。
 この時期、中庭は寒すぎて誰もいない。俺は渡り廊下から少し離れて、今は土だけの大きな花壇の前に二人を連行した。
「じゃ、後は二人でどうぞ」
 俺がそう言ってその場を立ち去ろうとすると、男子生徒はようやくほっとしたような顔をし、梨佐は棄てられた子猫のように表情を崩した。
「れぇちゃん……」
 半泣きの、すがるような声。俺の学ランの袖をきつく握りしめて、梨佐は全身で置いてかないでと言っている。
 俺は小さく息をついて、手をのばした。梨佐の冷たくなった頬を軽く撫でる。
「この人はオマエに話したいことがあるんだと。だからちゃんと聞いてこい。俺はあっちで待ってる」
 渡り廊下の方を目で示す。梨佐は固く唇を結んで首を横に振る。
 ここまで嫌がっているんだから引き下がってくれればいいものを、とは思うが、三年男子にそんな気配は一向にない。イライラ、ピリピリとした空気が俺にちくちくと刺さるだけだ。
「大丈夫だから」
 俺はそれだけ言うと、速足で二人から遠ざかった。渡り廊下のところでぴたりと止まり、振りかえる。
 俺は梨佐に手を振った。
 ここなら普通に話しているくらいの声は聞こえない。が、三十メートルも離れていない。ふたりの表情だってある程度は分かる。梨佐はしばらく俺の方を見ていたが、やがて手を振り返した。一応、納得はしてくれたらしい。
 男子生徒は嫌そうな顔をしていたと思うが、しばらくすると気を取り直したように梨佐に向き直った。
 何やら話をしている。まぁ、それが目的なのだから、当たり前だろう。俺は腕を組み、渡り廊下の頼りない細い柱に身をもたれてそれを眺める。
 梨佐はうつむき気味に男子生徒の話を聞いているようだった。俺とふたりの時はうるさいくらいで、はっきりと受け答えをする梨佐だが、よく知らない男子相手では声すらまともに出ているのか怪しい。
 ひゅるひゅると冷たい風が吹いて、俺は身震いした。肉のよろいがある俺でも、さすがに寒い。
 しばらく眺めていると、梨佐はふるふると首を横にふった。意を決したように顔を上げ、何か短く言う。
 梨佐はそのまま、俺の方に走って来た。
「……」
 無言のまま、柱から身体を離して梨佐を待っていた俺に抱きつく。今度は、多少は予測できたことだったから、俺もそれを無言で受け入れた。
 梨佐の肩越しに、呆然としている三年男子が見える。
 俺は俺に抱きつく梨佐を一度離すと、ここに来た時と同じように、梨佐の手を握ってその場を立ち去った。
 去り際、ちらりと横目で見ると、三年男子はまだそこに立ちつくしていた。

「お、梨佐に鈴江」
 弁当を取りに教室に戻ると、中野につかまった。
「何だよ」
「一緒にお昼食べない?」
 中野はまだ開いていない弁当箱を目線の高さにかかげて言う。和解してから、中野はこうしてたまに昼飯にまざるようになった。中野は女子にしては珍しく、どこか特定のグループに所属しているわけではなく、毎日色々なところを渡り歩いているらしい。もとから梨佐のことを頼もうかと思っていたから俺としては渡りに船なのだが、今日はあまりにタイミングが悪い。
「あー……」
 俺が答えに窮していると、梨佐が俺の腕を締め上げた。……痛い。
 これは無理そうだと思ってどう断ろうかと考えていると、俺が答えるよりも先に中野が半ば強引に梨佐の手をとった。
「ちょっと、話しておきたいことがあるから」

 結局、三人で書道室に移動することになった。
 中野は、面倒見はいいが、余計なおせっかいを焼くタイプではない。そのあたりの見極めは上手いやつだから、こんな強引について来るなんて何かよっぽどのことなのだろう。

「梨佐、いい加減離れろ」
「……」
 弁当を広げてそう言っても、梨佐は無言でふるふると首を横に振ってますます俺にしがみついてきた。三年男子と、不完全とはいえ二人きりにされたのがよっぽどストレスだったらしい。
「あー……とにかくメシは食え」
 弁当箱を差し出す。梨佐はしばしそれをじっと見ていたが、やがて不承不承といった様子で弁当箱を受け取った。俺の隣により添ったまま、もそもそと食べ始める。
 その様子を見ていた中野は、自分の弁当箱を広げるは広げたが、手をつけずに俺に聞いた。
「ところで、さっきの三年は何の用だったの?」
 いきなり核心をついてくる。途端に、梨佐が箸を止めて不快そうに眉根をよせた。
「何か変なこと言われたの?」
 その様子に、中野が今度は梨佐の方にたずねると、梨佐は憮然とした顔でこっくりと力強くうなずいた。……頬を膨らませていない。これは、本格的に嫌がっている。
 俺は梨佐の代わりに答えた。
「どうせまた好きだとか言われたんだろ」
 梨佐につられて、自然、俺も吐き捨てるような口調になる。梨佐はこくりとうなずいて、また俺にしがみついた。
 それを見た中野がフに落ちない顔をする。
「……告られたのに、梨佐は何でこんなに嫌そうなの」
 まぁ、確かに。普通はよっぽど嫌いな男でもないかぎり、好かれれば気分はいいもんだろう。さっきの三年男子、よく知らないがぱっと見、俺とは違ってさわやか系だし大抵の女子の第一印象は悪くないだろう。梨佐に告白してくる連中は、誰が見ても平均以上の容姿のヤツばかりだ。
 しかし梨佐は相変わらずむすっとしている。何か思い出したのか、梨佐は拳をふりあげ畳を叩いた。どすりと腹に響く鈍い音に、中野がびびったように梨佐を見る。
 俺は答えた。
「こいつ基本、男嫌いだから。たぶん、本気にもしてねぇんじゃねぇの」
「はぁ?」
 俺のおざなりな答えに、中野はさらに首を傾げる。しかし、俺としては中野より梨佐だ。
「いいからメシを食え。くっつきたいなら食ってからにしろ」
 すっかり弁当を放棄している梨佐に、強引に弁当箱を持たせる。梨佐はやっぱり憮然とした顔をしたまま、それでもまた弁当を食いはじめる。俺はそれを確認して、自分の弁当箱を手にした。梨佐が作った弁当は、今日も普通にうまそうだ。
「中野も。話がしたいなら後にしてくれ」
「……分かった」
 俺がそう言って弁当に手をつけると、まだ納得できないような顔をしていたが、中野も昼飯を食べ始めた。

 梨佐は基本的に、男が嫌いだ。嫌悪していると言った方が正しいかもしれない。
 例外が、家族と俺。それに、俺の親父やジイさんに会った時も平気そうだった。
 性別が男というだけでどんなのでも基本的には嫌なようで、絶対に近づこうとしないし、やむを得ない場合でもできる限り離れようとする。人見知りも大きいが、それでも女には、そこまでの態度はとらない。中野みたいに見た目が可愛らしくて優しげなタイプにだったら、微妙になつくこともある。
 梨佐が最も嫌うのが、今日みたいに告白してくるようなヤツ。自分に興味や好意を示す男には、時に憎悪の視線すらあびせる。
 理由は、はっきりしていた。

「小学校低学年の男子が、好きな女にどんな態度とるか想像してみろ」
 昼飯を食い終わって、「で?」と話の続きを要求した中野に、俺はそう言った。
 中野は意外と素直に俺の言葉に従い、それを想像してみたらしい。くしゃっとその顔を崩した。
 小学生男子。それは好きな子をいじめてみたくなるものである。
 偏見ではあるだろうが、少なくとも、梨佐の周りにいたのはそんなんばっかりだった。特に、低学年の頃の梨佐は男子にいじめられて毎日のように泣いてばかりいた。梨佐はすぐに泣くから、そういう男子にはさぞつつきがいがあったのだろう。
 今のように黙っていれば神秘的、なんて雰囲気もまだなく、本当に普通にずば抜けて可愛かったからいい標的にされていた。……おかげで俺は子守になったわけだが。
「ガキの頃からそんな男子にばっかり囲まれててみろ。嫌いにもなるし、好きだとか言われてもからかわれてるとしか思えなくもなるだろ。しかも最初に告白してきたやつが、こいつをイジメ倒してたヤツだったし」
「……なるほどね」
 ため息交じりの俺の言葉にうなずくと、中野は俺の背中にはりついた梨佐をのぞき見た。しかし、まだ機嫌の直らない梨佐はびくとも動かず俺のふくふくした背中に顔を埋めている。

 梨佐の男嫌いの、一番の原因はやっぱりそれだと思う。
 俺が知っている限り、梨佐が初めて男に告白されたのは、小五の三月。中野に言ったとおり、相手はそれまでさんざん梨佐をイジメ倒してきたヤツだった。
 その頃、梨佐は学校の自由時間はもれなく俺の後ろにくっついていたから、俺までそれを聞くハメになったのだ。
 好きだと言われた梨佐は、ぱちぱちと瞬きをして、それからその男子をにらみつけた。
「大っキライ!」
 はっきり、きっぱり、欠片の期待も粉々に踏み砕くような激しさで、梨佐はその言葉をそいつに投げつけた。
 まぁ、気持ちは分からないでもない。それまで、本当に毎日のように泣かされてきた相手だ。梨佐は好きだというその言葉を、たぶん信じもしなかった。哀れといえば哀れだが、それはそいつの自業自得だろう。
 それ以来、梨佐は自分に告白して来る連中を、「自分をイジメようとしている敵」だと認識してしまっているらしい。今のところ、梨佐に告白してくるヤツというのが最初のヤツ以外、梨佐とまともに話したこともないというのばっかりだから(梨佐とまともに話せるようになるまでは恐ろしい時間がかかるし、この性格を知ってまで梨佐を好きだというモノ好きは、まぁ俺一人で十分だろう)、その認識を覆すこともできない。
 だから梨佐は告白されると、機嫌が最悪になる。子どもの頃に泣かされたこととか、嫌なことを思い出すらしいから、余計だ。

「で? 中野の方の話って?」
 俺から話せることなんて他にはないから中野に話をふると、中野は「ああー……」とつぶやいて、どこか遠くを見た。「嫌だなぁ、もう」とか何とか、ぶつぶつ一人で言っている。そんなに話しづらいことなのだろうか。
 俺は別に急ぐわけでもないから、ぼんやりと背中にはりついた梨佐が五時限目までに離れなかったらどうしようかとか、そんなことを考えていた。もうこのままサボってしまいたいが、そういうわけにもいかないだろう。何とか言い含めて、六時限まで梨佐を保たせないとならない。……ダルい。それもこれもあの三年のヤロウのせいだ、と責任を押し付けてみる。
 そんな不毛なことを考えていると、やがて中野が意を決したように顔を上げた。
「あのね、気をつけておいて」
「は?」
「今日、梨佐に告ってきた人、彼女がいたの。もう別れたらしいんだけどさ」
「……はぁ?」
 中野の言いたいことがいまいち分からない。あの三年に女がいようがいまいが、そんなのは別にどうでもいい。二股かけようとして梨佐に告白してきたなら腹は立つが、別れたんならそんなのはそっちの自由だ。俺にも梨佐にも関係ない。
 首を傾げる俺に、中野は言葉を継いだ。
「その彼女だった子。隣のクラスの、加藤まりあって子なんだけど、あたしの友だちでさ。悪いヤツじゃないんだけど……ちょっと。梨佐のことが好きだからってフラれて、すさんでるから」
「あー……」
 ……何だか話が読めてきた。小学生の頃にも似たようなことがあった気がする。その時は自分の好きな男が梨佐にヤケに優しいからムカつくとかなんとか、単なる難癖だったから俺もキレて相手を黙らせたが。あの頃は俺も青かった。……思い出したくもないことを思い出してしまった。
 中野は心配そうな視線をちらりと梨佐に向けて、それからまた続けた。
「まぁ、基本的にはさばさばしてるし、逆恨みするようなヤツじゃないから大丈夫だとは思うんだけどさ。ただ、あんま人間はできてないし結構自分に正直なヤツだから、梨佐に良い感情は持てないだろうしそれを隠しもしないと思うのね。だから、できるだけ近づかないようにした方がいいかも」
「……わかった」
 俺はその名前を要注意のマークをつけて記憶する。
 まったく、あの三年も面倒なことをしてくれるものだ。ただでさえ梨佐の機嫌を最悪にしてくれたっていうのに、本当に梨佐が好きなら梨佐を厄介事に巻き込むような真似をするなと言いたい。
 その加藤というのは、中野が悪いヤツじゃないと言うくらいだから、たぶん不用意に近づかなければ大丈夫なのだろうが、それでも厄介は厄介だ。
 ……まったく、頭が痛い。

 どうにか梨佐に言い含めて残りの授業は受けさせたが、部活は無理そうだった。俺が話しかけても眉間にしわをよせたまま、固まってしまったみたいに表情が動かない。
「中野」
「わ……びっくりした。鈴江か。何?」
 とりあえず梨佐を席につかせておいて、中野に後ろから声をかけると、小さな中野はびくりと肩を震わせた。俺の方から話しかけることなどまずないから、驚いたのだろう。振り向いて俺を確認すると、中野は俺の話をうながした。
「ああ、今日の部活、梨佐休ませるから」
「え?」
 中野は自分の席についてじっとしている梨佐を見やる。
「梨佐、まだ機嫌なおらないの?」
「ああ。たぶん今日いっぱいはムリ」
 これまでの経験に照らし合わせて答える。中野は「ふぅん」と気のない返事をして梨佐から視線を俺に移した。
 俺を見上げた中野は、戸惑ったような顔で言った。
「ごめん、あたし的にはちょっと過保護かなって、思うんだけど」
 中野の言葉はもっともだ。このくらいのことでいちいち休んでいたらやっていられないだろう。
 俺も梨佐の方をちらりと見る。いつもならば落ち着きなく足をぶらぶらさせている梨佐が、ぴくりとも動いていない。斜め後ろから見ているから顔は見えないが、たぶんむすっとしたまま、思いつめたみたいにどこか一点を凝視しているんだろう。
 俺はため息をついた。
「だろうな。けど、一回失敗してるし……」
「失敗?」
 一瞬、余計なことを口走ったと後悔した。慌てて思考をまとめる。
「あー……小六のときだけ、俺、あいつと違うクラスになったんだよ。それで良い機会だと思って距離置いたら、あいつの人見知りが悪化した」
「……」
 中野は黙りこむ。
 あの時のことは、正直あまり思い出したくない。だから俺は、その時の俺が下した結論だけを口にした。
「あいつは、無理をさせるとダメなんだ。できる範囲を少しずつ広げていってやらないと」
 甘いのかもしれない。それでも、もう二度と梨佐に無理をさせてあんなことになるのだけはゴメンだ。
 皆まで言わずとも、俺が言いたいことは伝わったのだろう。中野は「色々とあるのね」と相槌を打って表情をゆるめた。
「分かった、先生に言っとく」
「悪い」
 俺は中野にそれだけ言って、微動だにしない梨佐の元へと急いだ。

(C) まの 2009