モナリザと愛の告白 《後編》

「……礼ちゃんのお家にいく」
 電車に揺られ駅につき、俺が「家に帰るか、俺んち来るか、どっちがいい」と聞くと、梨佐は小さな声でそう言った。
 人通りの多い駅前を抜けて、静かな住宅街を歩く。手をつなぐが、いつもみたいな羞恥はない。いつもは梨佐がはしゃいでぶんぶんと腕を振り回すから恥ずかしさが倍増するのだ。今は、梨佐は俺にひっぱられるようについて来るだけだ。子どもがはぐれないように手をつなぐのと同じような気分だから、別にどうということもない。
 十五分程歩くと、俺の家に着く。鞄から鍵を取り出し、梨佐を先にあがらせてまた鍵を閉めた。俺の家は梨佐の家とは違って両親ともどもワーカホリックなので、帰らない日も多いし帰ってくるにしても大抵は夜中だ。兄弟もいないし、梨佐は「さびしーね」と言うが俺にとってはこれが普通だ。
 梨佐にとっては勝手知ったる他人の家。俺が何も言わなくとも、いつものように洗面所で手洗いうがいをして俺の部屋へと向かう。俺も同じようにその後を追った。

 畳敷きの八畳間にマットレスベッドとコタツ。せんべい布団ならぬせんべい座布団が三枚ほど、その周りに置いてある。
 ぱっと見、俺の部屋にあるのはそれだけだ。片付けるのが面倒なので、細々したものは押し入れに、その名の通り押し込んである。
 俺はコートを脱ぐと、コタツの電源を入れて座った。隣の面に座ればいいものを、梨佐は無理に俺の真隣に入ってくる。
「……」
 ちらりと横目で見ると、梨佐は何かのマンガみたいに深い縦ジワを二本、眉間に刻んでいた。俺の腕にがっしりとくっついている。
「……いい加減、機嫌直せよ」
 ぐりぐりとその眉間のシワを伸ばすようにすると、今度は唇をとがらせた。一体どういう仕組みなんだ。
「だって、ヒドイんだもん!」
 俺がため息をつくと、梨佐はようやくそう口にした。ぷくっと頬をふくらませる。そのでかい目が潤み出し、ぎりぎりと歯がみする。何やら悔しがっているのだろう。
 思い切り小さな子どものような――いつもの梨佐だ。やっと多少は毒気が抜けてきたらしい。
 そのことに少しだけ安堵して、俺は梨佐に聞いた。
「ひどいって、ただ好きだとか言われただけだろ。そのくらいは許してやれよ」
 見ていた限り、ぽつぽつと話していただけのようだし、会話していた時間も短かった。そんな大した話はしていないはずだ。
 ところが梨佐は、両手を拳にしてどすどすとコタツを殴った。
「ちがうもん!」
 これ以上ないってくらいに頬をふくらませて、怒りを爆発させる。あまりにもどかどかとコタツにあたるので、俺は梨佐の腕を押さえた。これでは梨佐もコタツも痛いばかりだ。
「何か他に言われたのか?」
 冷静になるように、話をうながしてやる。梨佐はじとりと俺を上目づかいで見て、ぼそりと言った。
「……礼ちゃんのワル口、ゆった」
「何て?」
「梨佐、いいたくないっ!」
「……」
 俺が掴んだ腕を、またぶんぶんと大きく振る。
 梨佐が言う、俺の「ワル口」なるものが何なのか。正確には分からない。梨佐が俺の悪評を聞いて腹を立てるのはこれが初めてではないが、梨佐は絶対に俺のことをけなすその言葉を口にしようとしない。ただ今回はなんとなく、予想できた。
 たぶん、なぜ俺みたいなのと付き合っているのか、とか、もっとふさわしい相手がいる、とか何とか。そんなようなことだろう。教室で梨佐に抱きつかれている俺を、そんな顔をして見ていたから、なんとなく。
 梨佐は俺の腕をほどくと、遠慮会釈なく抱きついてきた。
「うー、うー、うーっ!」
 怒りを抑えようとしているのか、何やらうなっている。
「……」
 俺は小さく息をついて、ぽんぽんとその細い背中を叩いた。

 俺は梨佐の男嫌いを子どもの頃からよく知っていたから、梨佐が俺に懐くのは、梨佐にとって俺が男じゃないからなのだろうと思っていた。
 だから俺は梨佐のことが好きだと気づいても、自分の気持ちを言うつもりなんて、絶対になかった。それはきっと、梨佐にとって裏切りと同じことだろうと思ったから。
 そしていつか、梨佐は俺のそばからいなくなる。一年前の俺は、そう信じていた。
 それなのに、どうして今、こんなことになっているのやら。
 ……そんなの、考えるまでもない。いつもの通り、梨佐に押し切られたのだ。

「礼ちゃんのことが大好きです。梨佐と付き合ってください」
 梨佐がそう言ったのは、中学の卒業式の日のこと。
 ひと気のなくなった学校を、もう最後だからとふたりでぶらぶらしていた時のことだった。

 校舎内を一通りまわって外に出ると、中庭で梨佐が足を止めた。
 この春は暖かかったから桜はもう半分以上開いていて、見上げると青い空に淡い桃色の雲が浮かんでいるみたいだった。
 中庭にある小さな池の周りにはタンポポがいくつも咲いていて、梨佐はそれを見つけると、しゃがみこんでにこにこしながら見ていた。まったく、ガキみたいで時々本気であきれるが、それが梨佐だから仕方ない。梨佐は綿毛を吹くのが好きだから、早く綿毛にならないかとか何か、そんなことを考えているんだろうと思って、俺はそれを眺めていた。
 梨佐はしばらくまだまだ黄色い現役のタンポポを眺めたりつついたりしていたが、ふと、俺を見上げた。
「礼ちゃん、あのね」
 梨佐は俺に話しかけた。しゃがんだまま、俺を見上げる。その顔がさっきまでと違って思いつめたみたいだったから、「どうした」と聞いて俺もその隣にしゃがみこんだ。
 梨佐は困ったような顔をして、ぱくぱくと口だけを動かしていた。「あのね、あのね」と繰り返す。頭の回転がトロい梨佐には、割とよくあることだ。
「あわてんなって。いつも言ってるだろ? 待っててやるから、ゆっくり考えて話せ」
 だからいつもみたいにそう言ってその小さな頭に軽く手を乗せた。
 卒業式の日だったから、俺も多少は感傷的になっていたのだろう。いつまでこのポジションにいられるのだろうと、その時なんとなく思った。同じ高校に行くことはもう決まっていたから、少なくともあと三年は梨佐の側にいるのだろうが、梨佐が誰かを選んだら、それを待たずに俺はこのポジションを明け渡さなくてはならない。いつまでもそんな日が来なければいいのにと、俺はどうしてか無性に寂しい気分でそう思った。
 梨佐はその時、一体何を考えていたのだろう。その大きな目が俺をじっと見つめて、ぱくぱくと動いていた唇が止まった。いつも俺の前では泣いたり怒ったり忙しいその表情がなりをひそめて、神々しいほど美しい梨佐が、ただ俺を見ていた。
 俺はそれに見とれて。その唇が言葉をつむぐために再び開かれるのをぼんやりと見ていた。

「礼ちゃんのことが大好きです。梨佐と付き合ってください」

 開きかけの桜と同じ色の唇が、そう言った。
 俺はその言葉の意味をすぐには理解できなくて、まだぼんやりと梨佐に見とれていた。
 その時の梨佐は、本当に綺麗だったのだ。見た目だけじゃなくて、何か。内側から何かが溢れ出して梨佐の全てが輝いているように見えた。
 その綺麗な、綺麗な、綺麗な梨佐が、一体何を言っているのか。
 耳の奥でこだまする言葉をとらえて、脳髄がそれを理解した。その、瞬間。
「無理」
 何かをああだこうだと考える前に、俺は、そう答えていた。

 だって、あり得ないだろ。梨佐が俺を好きだ? 絶対あり得ない。梨佐お得意の勘違いだ。懐かれてはいるがそれは俺が梨佐にとって男じゃないからだ。中学三年間で育ちに育ったこの脂肪を見て俺を男として見られるヤツがいたら梨佐以外でも頭の中身を疑う。それにしても何がどうしてこうなった。訳がわからない。梨佐は自分に告白してくる連中を片っ端から敵とみなして切り捨ててるじゃないか。中身は幼稚園児だしコイツが恋愛云々を理解できているはずがない。絶対ない。あり得ないあり得ないあり得ない絶対にない無理無理無理無理梨佐と付き合うとか考えられねぇ! 好きだけど、それとこれとは話が別だろ!
「無理」という自分の声が聞こえて初めて、俺の頭の中にはぐるぐるとそんな思考がかけめぐった。現実の俺は見事にフリーズしていたことだろう。正直、梨佐の突拍子もない行動に慣れている俺も、これはマジで予想できなかった。想定外にも程がある。

 俺の返答に、梨佐はしばらく俺をぼーっとマヌケな顔で見ていたが、やがてぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
「!」
 いつもみたいに泣きわめくんじゃなくて、ぼんやり俺を眺めているそのままに、その頬にいくつもいくつも涙が落ちてゆく。
「お、おい泣くなよ……」
 それを見て、動揺した俺はいつもの癖でポケットからハンカチを取り出し、梨佐の頬に当てた。その俺の行動で自分が泣いていることに初めて気づいたみたいに、梨佐は目を丸くして、それからぐしゃりとその表情を崩した。
「う、うぇ、ふ、ううぅううぅ、うわぁああぁあぁぁぁあああん!」
 いつもはもう少し我慢しようとする。けれど、その時の梨佐はもう泣いていることに気づくとどうしようもないみたいに大声で泣き出した。俺がいつもみたいにその頭を撫でると、梨佐は俺の首にしがみついた。その勢いで、地面に座りこんでしまう。耳元で泣きわめかれて鼓膜が破れるかと思ったが、俺はそれを引きはがす気にはなれなかった。

 俺は困り果てていた。
 梨佐が泣きだして面倒を見ているうちに次第に平常心を取り戻してきて、何も考えずに「無理」とか言ったのはいくら本音でもさすがにマズかったかと思った。あり得ないけど、これが梨佐以外だったら一応もうちょっと考えてソフトに表現したと思う。
 だからその時ばかりは梨佐を泣かせたのは俺で、どうやって梨佐を落ち着かせてやればいいのか分からなかった。
「礼ちゃんが好きなのっ! 梨佐、礼ちゃんといっしょがいいよぅ!」
 困惑している俺に、梨佐は泣きながら投げつけるようにそう言った。その言葉に、俺はますます困って何も言うことができなくなった。
 梨佐のことは好きだった。もうずっと、自分でも何でこんなのが好きなんだと思うけどどうしようもなく好きだった。めちゃくちゃ疲れるけど、それでもいいから俺だって梨佐と一緒にいたい。その時の俺もそう思った。
 なら付き合えばいい、梨佐だってそれで泣きやむだろ、と。その時、心の中の俺がつぶやいた。それを聞いたもう一人の俺が、馬鹿じゃねぇかと侮蔑の言葉を投げつける。恋愛を理解してない梨佐の勘違いに付け込んで、幼なじみの特権利用して丸めこんで自分の懐に抱え込もうとは、いやはや見下げ果てた根性だ。自分にそんな権利があると思ってるのか大馬鹿野郎、マジで梨佐が好きならもっとマシなことを考えろ、と。こちらは真正面から正論をぶつけてきた。
 理性と感情がせめぎあって、俺の中はぐちゃぐちゃだった。泣きたいのはこっちだと、また別の俺が泣いている梨佐に八つ当たりするみたいに思う。何で好きな女に告白されて、無理とか答えた上にこんなこと考えてるんだ、と。
 ぐるぐるとまわる思考に俺が疲れ果てた頃に、梨佐はようやく少し静かになった。

「……他に、好きな子がいるの?」
 いつもみたいに顔を拭いてやると、梨佐はかすれた声でそう聞いた。にらみつけるみたいに鋭い瞳に見つめられて、居心地が悪い。
「そんなもん、いねぇ」
 俺は目をそらし、正直に答えた。今もむかしも、梨佐以外にそんなのはいない。梨佐はそれを聞くと、ひとつ大きく息をついて俺を真正面から見据えた。
「じゃあ、梨佐のこと好きじゃなくていいから、付き合って」
「は?」
 俺は訳が分からなくて、ぽかんとその顔を眺めた。梨佐は驚くほど真面目な顔で続けた。
「梨佐がそのぶん、礼ちゃん好きだから。大好きだから。付き合って」
「お、オマエな。そういう問題じゃねぇだろ」
 ずっと好きだった梨佐に好きとか連呼されて、上ずりそうになる気持ちを必死に落ち着かせようとするけど上手くいかなかった。梨佐は真顔で言い放った。
「なんで?」
「な、なんでって……」
 えーと、俺って何か間違ったこと言ったっけ、とうっかり自分の行動を反省しそうになる。そのくらい、梨佐は平然と、さも当たり前のことを言うみたいに続けた。
「梨佐、礼ちゃんが好きになってくれるようにがんばるよ。だから付き合って」
「いや、頑張るとかそういうもんでもねぇだろ」
 答える自分の声が、我ながら弱々しいと思った。それとは対照的に、梨佐は少しも揺るがなかった。
「付き合ってくれるまで、梨佐、ぜったいあきらめないもん」
「……」
「礼ちゃんが好きなんだもん」
「……」
「梨佐と付き合って」

 たたみかけるような梨佐の言葉に、最早返答もできない。ただでさえ混乱していた俺の頭の中は、もうどうしようもない状態だった。梨佐の言葉が嵐みたいに吹き荒れて、車酔いでもしているみたいにぐるぐるして気持ち悪い。
 俺は乱暴にがしがしと自分の頭をかきむしった。
「ああああああっ! 何でこうなる!」
 わめいたのは、たぶん俺の最後の理性の欠片。
「オマエ絶対、恋愛とか分かってないだろ!? 俺だってこれでも一応は男なんだぞ!」
「? 礼ちゃんは男の子だよ? 梨佐しってるよ?」
 それまで真面目な顔をしていた梨佐は、俺の言葉にきょとんとした。俺の言いたいことがさっぱり通じている気がしない顔。
 それで、俺の中の何かがキレてしまった。
「そういう意味じゃねぇ!」
 俺はぽかんとしている梨佐をがむしゃらに抱きよせた。何の抵抗もなく腕の中に収まった、何にも分かっていなそうな梨佐の耳元で怒鳴りつける。
「オマエ、男なんて嫌いなくせに……っ! 何でそんなこと言うんだ、バカ!!」
 知っているのに。俺はそれを嫌というほど知っているのに、もうどうやっても自分の感情を上手く抑えられなくなって、俺は梨佐を抱きしめた。
 だって本当はずっとそうしたかった。絶対にそんなこと、梨佐を裏切るようなことはするものかと思っていたのに。
 初めて抱きしめた梨佐は思った通り、俺と違ってひどく細くて、簡単に折れてしまいそうで怖くてたまらなかった。
 けれど、頭のどこかで我に返ればきっと拒絶すると高をくくっていた梨佐は、俺の案に相違して力強く言い放ちやがった。
「だって、礼ちゃんは好きだもん!」
 梨佐はそう言うと、俺の顔をのぞきこんだ。いつもとは違う、年相応の毅然とした顔。梨佐ははっきりとした声で続けた。
「世界でいちばん礼ちゃんが好き」
 その声は少しだけ震えていた。あの能天気な梨佐が、まるで緊張でもしているみたいに。まぶしそうに目を細くすると、梨佐は俺に抱きついて、このだらしなく太った身体を遠慮なしに、力の限り抱きしめた。

 そこまで言われて、そこまでされて、それ以上、俺にどうしろって言うんだ。
 ――だって、俺はもうずっと、梨佐のことが好きなのに。

「ああああああっ! もう知らん、俺は知らん!」
 どうしてか、無性に腹が立った。
 あまりの腹立たしさに、俺は八つ当たりでもするように怒鳴り散らした。俺に抱きついていた梨佐が突然の大声にびくりと震える。俺はその顔をのぞきこんだ。
 梨佐は驚いた顔をして俺を見ていた。
「後悔しても俺は知らないからな」
「……」
 梨佐は理性とか、信条とか、その他諸々俺を律しているもの全てを易々と屈服させてしまった。お手上げだ。全面降伏する。俺はもう梨佐に抵抗できる気がさらさらしなかった。
 ぽかんとしていた梨佐は俺の言葉の意味を理解すると、頓狂な声を上げた。
「り、梨佐と付き合ってくれるの!?」
 自分から言い出したくせに、なぜそんなに驚く。
「オマエが言い出したんだろ。嫌ならとっとと離れろ」
 思わずふてくされたように言うと、梨佐は勢いよく首を左右に振った。さっきまでずっと真面目な、綺麗な顔をしていた梨佐が――破顔する。
 梨佐は俺の好きな、心から嬉しそうな幸せそうな顔で、笑った。
「わーい!! 梨佐の礼ちゃんー!!」
 そう言って、再び俺に力一杯、抱きついた。梨佐は日だまりのように温かかった。

 あれから早九ヶ月。
 幸か不幸か、あの時は梨佐が恋愛を理解している訳がないと思っていたが、それは杞憂だったらしい。梨佐が全力で俺を好きだというのは、どうしてなのか未だにさっぱり理解できないが、それでも嫌という程分かった。
 ただ梨佐の男嫌いは、俺と付き合い出してからも一向に直らない。それどころか、今日の不機嫌さ具合を見ている限り、悪化している気もする。

 あの名前も知らない三年男子に腹を立てていた梨佐は、疲れたのか俺に抱きついたまま眠ってしまった。相変わらずガキみてぇだ。
 俺はそっと梨佐を床に寝かせて、座布団を枕にしてやった。上半身が寒そうだったから、ベッドから毛布をはいでかけてやる。
 俺はコタツの、梨佐が寝転んでいる隣の面に移動して、数学の課題に手をつけた。
 その合間に、ふと思う。
 ……俺は、俺が為すべきことをきちんとできているんだろうか。

 梨佐に押し切られて半ばやけになって付き合うことになって、その日の夜に冷静になって考えた。
 俺は、俺にできることをしようと。
 梨佐と付き合うなんてそれまで本当に考えたこともなかった。だから、なんつうことをしたんだと、後悔しなかったと言えば嘘になる。正直、今からでも遅くないから無理だと言おうかとも考えた。だけど。
 だけど、俺はやっぱり梨佐が好きだから。側にいられるなら、梨佐がいていいと言ってくれるなら。俺は、俺ができる全てのことをしようと心に決めた。――梨佐がこれからもずっと笑ってくれるように。

 俺は今、それができているんだろうか。
 すよすよと眠っている梨佐をちらりと見る。
 あまり自信はない。俺は、こと梨佐に関しては何だか間違ったことばかりしているような気がして仕方がない。
 今日みたいに笑わない梨佐を見ていると、そんな気持ちが強くなる。

「梨佐、起きろ」
「んん……」
 数学の課題を片付けると、時計の針は五時半になろうとしていた。そろそろいつもの帰宅時間だ。肩を揺さぶると、梨佐はぼんやりとした目で俺を見た。
「そろそろ家に帰る時間だろ」
「……はぁい」
 起き上り、ふるふると首を横に振る。俺はねぼけまなこの梨佐にコートを着させて、梨佐の家へと向かった。

 まだそれほど遅くはないのに、冬至も近いから辺りはすっかり真っ暗になっていた。
 静かな住宅街。家の灯りと電灯が、ぽつぽつと道を照らしている。
 ひと気のないその道を、俺は幼稚園の先生よろしく梨佐の手を引いて歩いた。俺に手を引かれている梨佐は、無言で後をついてくる。

「礼ちゃん」
「何だよ」
 道のりの半分以上を過ぎただろうか。
 ふいに呼ばれて振り向くと、ようやく目が覚めたらしい梨佐は白い息と共に言った。
「さむいねぇ!」
 つないだ手はいつもよりさらに冷たい。それでも、機嫌はようやく直ったらしい。眉をしかめるその顔は、さっきまでと違って寒いと言いながらもどこか楽しそうだ。
 寝て直るとか本当にガキみたいだが、いつもの梨佐にほっとして、俺はその手をしっかりと握り直して答えた。
「冬なんだから、仕方ねぇだろ」
「でもさむいー」
 梨佐はそう言うと足を速めて、俺の隣に並んだ。つないでいた手を離して腕にびったりとくっついてくる。それまで保護者きどりだったから何ともなかったのに、急に羞恥が襲ってくる。反射的に、俺は怒鳴った。
「俺で暖を取るなッ!」
「やー、この方があったかいよ!」
「俺は歩きづらい!」
「いいんだもん!」
「よくねぇ!」
 俺が怒鳴っても梨佐はどこ吹く風。いたって能天気な幸せそうな顔で俺の腕にくっついている。
 完璧にいつもの梨佐だ。
 あきれるのと疲れるのと安心したのとがごちゃまぜになって、ため息をつくとそのため息も真っ白に凍って暗闇に浮かぶ。
 そうこうしている内に、前方に梨佐の家が見えてきた。きっとリカさんがすでに夕飯の仕度でもしているのだろう。梨佐の家には今日も灯りがともっている。
「ほら、家だ。離れろって」
「むぅうううっ」
 梨佐は頬をふくらませて一度俺をにらんだが、しぶしぶといった様子で俺の腕を離した。その代わり、俺の手を握り締める。……どうあっても家にたどりつくまでは俺から離れる気がないらしい。

「じゃあな」
 ようやく門のところまで梨佐を送り届けて、俺は言った。
 これで俺の長い一日は終わる。手を離し、梨佐に背を向けると、しかし俺は一歩も動けなくなった。
「礼ちゃん!」
「ぐぇ!」
 思い切り後ろにひっぱられて、思わず変な声が出る。
 振り向くと梨佐が俺のコートの裾をむんずと掴んでいた。あまりに遠慮なくひっぱられたもんだから、首が勢いよく揺れて数学の課題で固まっていた肩がごきごきとイイ音で鳴ったのだが、まぁこのくらいは日常茶飯事だ。梨佐は気にもとめていない。……別に構わないが。
「あのね、あのね」
 梨佐はいつものように言葉につまって、困ったような顔をしながらそれだけをくり返す。俺は軽く首を回して痛みがないことを確かめると、きちんと梨佐に向き直って聞いた。
「なんだ?」
 あんまり握りしめるもんだから真っ白になった梨佐の手をゆっくりとほどく。俺のコートの裾はシワだらけになっているが、つるしておけばどうせ明日には取れているだろう。
 気休めにしかならないが、梨佐の冷たい手を俺の手ではさむ。困ったように首を傾げたので、その側頭部にぽんぽんと軽く触れると、梨佐はふとその表情をゆるめて言った。
「ありがとう」
「何が」
 梨佐は主語を省きすぎだといつも思う。何のことやらさっぱり分からなくて聞くと、ようやくいつもの能天気な笑顔を取り戻した梨佐が答えた。
「今日、ずうっといっしょにいてくれて」
「別にいつもどおりだろ」
「んーん。学校でもお外でも、梨佐がくっついても礼ちゃん、ぜんぜんおこんなかったもん。梨佐といてくれたもん」
「……」
 それはあれだけ不機嫌な梨佐を見て放っておけなかっただけだ。子どもの頃から刷り込まれただけあって、俺が梨佐の子守をするのはすでに条件反射になりつつある。俺にとっては当然のことで、だから梨佐の言葉は予想外で俺は返す言葉につまってしまった。
 何も言えない俺を気にする風もなく、梨佐はいたって元気に右手の拳を振り上げた。
「梨佐、礼ちゃんがいてくれたから、もうふっかつしたよ!」
「……良かったな」
 何と答えていいのか分からない。俺がそっけなくそう言うと、梨佐はそれでも満面の笑顔で「うん!」と返事をして、べったりと俺に抱きついてきた。
「えへへへへー、礼ちゃん大好きー!」
 相変わらず脂肪だらけの俺の身体を力一杯抱きしめて、俺の耳元で梨佐が言う。
 梨佐に抱きつかれるのにはもうすっかり慣れたはずなのに、俺の鼓動は速くなった。

 俺は、嬉しかった。
 梨佐に少しは何かできているんだと思えて。
 いくつもいくつも、やっぱり間違えてきたのかもしれないし、これからも間違えてゆくのかもしれないけど、それでも。ほんの少しでも、俺が梨佐にできることがあるといい。
 胸がいっぱいになって、何も言葉にならない。
 ぽんぽんといつもみたいにその細い背中を叩くと、身体を起こした梨佐は花が開くように笑った。

「また明日ねー!」
 玄関先で梨佐が大声で言う。
 俺は後ろ向きで歩きながらそれに手を振って、きびすを返した。
 今度は一人で住宅街を歩く。空気は相変わらず冷たいが、俺は梨佐ほど寒がりじゃない。
 見上げると、冬の空には星がもういくつも輝き始めて、俺はそれを眺めながら家路を急いだ。

(C) まの 2009