モナリザとバレンタイン・チョコレート

 二月十四日。
 言わずと知れた菓子業界勝利の日。
 俺はチョコレートの山を前に、戦々恐々としていた。

 話は二日前にさかのぼる。
「バレンタイン、お休みだねっ。お昼に礼ちゃんち行くよ!」
 梨佐はうきうきと弾んだ様子でそう言った。週末になると大抵、梨佐は俺の家に来る。だからそれは別にいつも通りのことで、それほど気にしてもいなかった。
 俺の場合、子どもの頃から毎年もらう唯一のチョコレートは、母親からではなく梨佐からだった。だから、その日を梨佐と過ごすのも、すでに年中行事。まさかこんなことになるなんて、夢にも思わなかったのだ。

「……」

 本日、十四日。
 宣言通り、正午にやって来た梨佐はいつものように昼飯を作り(今日は厚揚げとコマツナのあんかけうどんだった。「デザートがあるからカロリーひかえめなんだよっ」ということらしい)、俺と一緒にたいらげた。ふたりで片付けをした後、居間のソファに並んでよりかかって、一息つくと梨佐はラッピングされた箱を俺の前に差し出した。
「えへへ、礼ちゃん大好きっ! これからもずぅっといっしょにいてね」
 プロポーズもどきの告白と共に、はい、と渡された箱。大きさから言うと、中身は二人用の小さいホールケーキ、といったところだろうか。梨佐の手作りなのだろう、ラッピングは見るからに素人だ。
 ここまでは、予定調和だった。
 梨佐は菓子も普通に作れる。去年は受験が目前だったから買ったヤツだったけど、一昨年は梨佐手製のフォンダンショコラをもらった。美味かった。
 だから礼を言って、特に気負いもなくいつものようにその箱を開け――そこで初めて、俺はあれ、と思った。
 俺の予想に反して、そこに入っていたのはケーキではなく、トリュフだった。それはまぁいい。俺はトリュフも好きだ。
 俺が不審に思ったのは、チョコレートの種類に驚いたからじゃない。それが小さいホールケーキが入りそうな箱に、みっしりと詰まっていたからだ。
 本当に、隙間もないほどぎっしり、みっちり、いっぱいに、やや小粒のトリュフがこれでもかと詰め込まれている。
「……」
 これはどういう意味なんだ、と俺はいぶかしんだ。テレビでよく見るトリュフなるものは、箱に余裕をもって数粒ずつ収められていたような気がするのだが。
 俺が戸惑っていると、梨佐は不意に立ち上がった。とてとてと子どもっぽい足取りでキッチンへ向かい、カレーなんかを盛る大皿を持ってくる。それを目の前のローテーブルに置くと、その上で箱をひっくり返した。ぶんぶんと何度か振って、ようやく、中身がごろごろと皿の上に転がる。
 ……気持ちを量で表してみました的な発想なのだろうか。
 ちらりと見上げても、梨佐は満足そうににこにことしているだけだ。
 梨佐の思考回路がよめないのは、今に始まったことじゃない。形は崩れても腹に入れば同じなのだし、まぁいいかと、気を取り直して手を伸ばした。
 その時だ。
「ダメ!」
「は?」
 立ったままだった梨佐が皿を持って、俺の手を避けた。その勢いで山が崩れてチョコが皿からこぼれそうになり、梨佐が慌てて体勢を立て直す。
「せ、せーふ」
 皿を高くかかげて、ふぅと息をつく梨佐。とりあえず犠牲は出なかったようだ。
 しかし……それは俺にくれたもんではないんですかね。訳が分からん。
 ついてゆけない俺にはおかまいなく、梨佐はマイペースにちょこんと俺の隣に座ると、テーブルに皿を置いてその頂上から四角くひしゃげたトリュフを一粒、取り上げた。
 ……まさか「あーん」とかしないだろうな。
 幸か不幸か、俺の懸念は杞憂に終わった。

 梨佐は手にとったチョコレートをひょいと自分の口に入れた。
 まだよく分からなくて、俺はそれをぼんやり見ていた。だからそれに反応するのが遅れて、――俺は、梨佐に捕まった。
「……っ」
 梨佐の腕が俺の首に絡む。その指が俺の頭を押さえこむ。ぽかんとしていた俺の口を梨佐のそれがふさいで、息が、できなくなる。
「っ、ぅ、ぐ……っ」
 ようやく理解した。
 キスされている。
 口移しにされたチョコレートが溶けて、濃厚な甘みが口中に広がる。
 心臓が壊れそうに脈を打って、どこか頭の回線が焼き切れた気がした。
 何も考えられない。何も聞こえない。何も見えない――梨佐以外には。
 至近距離。梨佐の大きな目。閉じたり、開いたり。俺に微笑みかけて、また閉じて。
 熱が、生まれて、ぐらぐら、煮え立つ。
 ――甘い。

「……えへへ」
 梨佐のへにゃりと崩れた間抜けな顔が、照れかくしのように笑った。その声に、俺の脳髄が急激に現実感を取り戻す。
「……っ、……!」
 もう声にもならなかった。俺は炎上する顔を梨佐から背け、手で覆った。
 これはさすがに恥ずかしすぎる。
 ばくばくいう心臓を片手で押えて、どうにか落ち着こうと試みるけれど、一向におさまる気配がない。
 混乱する俺とは対照的に、多少は頬を染めているもののけろっとしている梨佐は、いつも通りに期待に満ちた目で俺を見つめた。
「おいしかった??」
「……お、おまえな……」
「おいしくなかった??」
「そ、そういう問題じゃねぇっ! 味なんぞ解るか!」
 かくんと馬鹿っぽく首を傾げている梨佐に怒鳴る。この状況で何をどう味わえっていうんだ、甘いってことくらいしか解らなかった。
 しかし、梨佐の思考回路は俺とは全く別の理論でつながっているに違いない。
「もいっこたべる??」
「もう一個って……待て、やめろ食おうとすんな!!」
 迷わずチョコレートの山に手を伸ばそうとした梨佐を、必死に止める。梨佐の手に渡ったが最後、「あーん」とされない限りもう一度心臓が壊れるような目に遭うのは分かりきっている。そんなことされてたまるか。
 俺の必死さが伝わったのか、梨佐は眉をハの字にしてうなだれ、上目づかいで俺を見つめてきた。
「……イヤ??」
「い、嫌じゃねぇけど……」
 でかい目をうるうるとさせて、まるでチワワだ。卑怯だ。反射的に否定してしまうじゃないか。
 まったく、本当にコイツは何を考えてるんだ。
 そう思ったその時だ。急に、天啓を受けたみたいに、ぴかっと頭の中にひとつの考えが浮かんだ。
 はっとして梨佐と、テーブルの上のチョコレートを見比べる。
 皿の上に山をつくっている小粒のトリュフ。どうしてこんなに大量なんだという疑問。突拍子がなくて予測ができない梨佐の行動と、しかし分かりやすすぎるその原理。
 まさか。まさかまさかまさか。ほとんど確信に満ちた、けれど信じたくない現実。
 梨佐は苦悩する俺の様子に、「うぅ?」と首をかしげている。
 俺は恐るおそる、その考えを口にした。

「ま、まさかおまえ……これ全部、口移しにする気か!?」
「うん!」

 案の定、梨佐は間髪入れずに元気よくそう答えた。にこにこと無邪気に笑っている。
 比喩表現ではなくて、俺は本当に頭を抱えた。こいつはやると言ったらやる。マジでやる。拒否れば間違いなく泣くだろうし、受け入れたら俺の心臓が壊れるに決まってるじゃないかどうしろって言うんだ!

「梨佐ねー、礼ちゃん大好きー」
 梨佐は人の気も知らず、へらへらと気の抜けた声でそう言って、俺の腕にぴたりとくっついた。ちらりと見やると、マヌケな顔をした梨佐がへにゃっと笑う。
「これがいちばん伝わるかなーって思って」
「……」
 ……可愛い顔しやがる。
 反則だ。こんな顔されたら、俺が逆らえるはずないじゃないか。

 結局、半分くらいは食べた。
 その辺りでさすがに胸やけがしてきて、「頼むから勘弁してくれ」と言ったら、梨佐は不満そうにしながらも割とあっさり引き下がってくれた。さすがの梨佐も同じ味には飽きたらしい。
「来年はいろんな味にしようっと」
 と、恐ろしいことをつぶやいていた。

 ……来年もやる気なのかよ。

 とりあえず乗り切った俺は、来年はせめて十粒以内に止めさせようと決心して、残りのチョコレートを冷蔵庫にしまった。

(C) まの 2009